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アイホール(伊丹市立演劇ホール)の
用途再検討という問題について

​到着順。本欄については、誤字脱字等以外は、編集部のチェックを行なっていません。執筆時点で各筆者の接し得た情報に基づいた見解を、そのまま掲載するものです。

□竹田真理 □上念省三 □須川 渡 □西堂行人 □岡田蕗子 □古後奈緒子 □瀬戸 宏

上念省三(ダンス批評)

 

 とっちらかった話になるが、お許しいただきたい。おそらく、考えなければいけないことがたくさんあって、うまく整理できていないままだ。

 ぼくは西宮市の文化関係の部署に週3~4日座っているのだが、今年の7月1日に、<「日経ビジネス」の「新・公民連携最前線」というシリーズで「伊丹市、駅前の演劇ホール活性化に関するサウンディングを実施」という記事が載っているので確認せよ>との指示が、上の方から流れてきた。

 その前から伊丹市が、公共施設再配置基本計画の周知をはかることに熱心なことは認識していた。既に2016年には、文化会館・音楽ホール・演劇ホールについて文化施設の再配置方針を打ち出していたし(2016年2月「伊丹市公共施設再配置基本計画の概要」)、これに基づいて、県内で初めて公共施設の総量規制をうたって「伊丹市公共施設マネジメント基本条例」を制定(2016年4月施行)、市内に位置する大阪芸術大学短期大学部の学生の取材・構成、障がい者就労支援施設の利用者のマンガ制作による「マンガ版パンフ 公共施設に行ってきました。」を発行するなど、かなり前のめりにこの問題に取り組もうとしていることも耳に入ってきていた。

 伊丹市立美術館を含めた「みやのまえ文化の郷再整備」もそれら一連の流れの、総合ミュージアムに博物館、美術館を統合しようというもので、今から思えば、今回のアイホール問題と通底しているように思える。

 伊丹にはアイホール、いたみホール(文化会館)、シンフォニックホール(音楽ホール)と、ホールがたくさんあるので、再配置(統廃合)されるとすれば、専門性の低いホールからだろうな、アイホールは安心だと、タカを括っていた。しかし考えてみれば、多くの市民・関係団体が使う可能性が高いのは、多目的ホールであり、次に音楽ホールであるだろう。アイホールの市外利用者が85~90%(伊丹市総合政策部8/20発表の「経過報告」による)というのはすばらしい数字だと思うが、「市外からたくさんの利用があって、お金を落とし、この街の名前を広めてくれているんですよ」というのと、「市民の皆さんの税金で運営する施設を、これだけ市民の皆さんが利用しているんですよ」というのでは、どちらが説得力があるのか。ぼくはイーブンだと思うのだが、みんながそうではないらしい。

 空港や自衛隊や競艇のある伊丹市でもこんなに厳しいのなら、うち(西宮市)なんか、到底無理やんな、というシニカルな空気も漂った。西宮の市街部には300人程度の多目的で集合ビル内のホールが3つ(フレンテ、プレラ、甲東)あるが、おそらく市外の方にはあまり知られていないだろう。それらを今後、次の経年劣化を受けて維持しきれるかどうか、はなはだ心もとない。1000人規模のアミティホール(市民会館)に至っては1967年竣工だから半世紀以上たっているが、移転新築の計画は、コロナ禍で凍結されているという状態だ。県の芸文があるから……という理屈が、通っているような通るわけもないような……。

 シヴィック・プライドという時に、演劇やダンス、音楽ではだめなのか、と、豊岡や新潟も参照しつつ、ため息をつく。芸術文化は、一地域に限定して享受されるものではないので、伊丹市民とか西宮市民とかに対象を限って議論するのは無理だ。関西の舞台芸術を伊丹市一地域に背負わせることは妥当ではないだろう。演劇ホールがあることが、伊丹として、伊丹市民としてのプライドとならなかったのだとすれば、PR不足をはじめとした問題もあるだろうが、それは伊丹市に限った問題であるというよりも、演劇の、舞台芸術の、芸術の問題ではないのか。

 アメリカ・ファースト、都民ファースト(2017~)という考え方が鬱勃し、日本全体が経済的にも人口的にも収縮していく中で、「市民のために」が最優先され、市域を越えた愛好家のために奉仕する支出が難しくなるのは、世の流れとしてやむを得ないことのように見えるだろう。市民活動を越えたレベルの文化芸術事業を、基礎自治体である市町が担うことは、早晩限界となるだろう。では都道府県なら可能かとなると、滋賀県の例がある。その上のとなると、国しかないのだが、その中間で関西圏や近畿といった自治体の広域連合のようなもので財団を作って、文化芸術を担うような方法はないものか。個々の都道府県の財政が厳しくなるにつれ、電力やガスや水道のように(営利・非営利の問題が横たわっているが)、文化芸術も広域管理の時代が来るのではないだろうか。

 念のため、兵庫県は少なくとも現時点では、県立芸術文化センターをはじめとして、舞台芸術に冷淡ではないといっていいだろう。結果的に「稼げる文化施設」になっているからでもあるのだろうが、稼げそうにない陶芸美術館でも意欲的な企画を連発している。公立施設に限って、大阪はどうか、京都はどうか。

 大阪は、民間施設の健闘ばかり目に入るように思う。京都は京都府の影が薄いように思う。50年を経た京都府立文化芸術会館も、移転という名の統廃合ではないかといわれている(京都府立文化芸術会館「移転」に関する運動の経緯と「北山エリア整備基本計画」中村暁(京都児童青少年演劇協会)、ねっとわーく京都オンライン)。行政に対して、舞台芸術の関係者は十分に働きかけてきたかどうか。例えば文化芸術に関わりの深い者を議会に送り込めたかどうか。以前、元宝塚歌劇団の但馬久美さんが新進党から参議院議員となった時、多くの賛同者を得て文化芸術振興基本法の議員立法(2001年)に力を尽くしたと聞いた。劇場法の際にもそれに類したことがあったと知られている。

 最後に、既存の劇場は、十分使われているのだろうか。たとえば、といって極端な話になるのかもしれないが、大阪市の肝いりで設置されたクールジャパンパークのSSホール(300人程度)を、もっと安く使えるようにはできないものか。使い勝手のことなどは知らないが、クールジャパンパークに3つのホールが一気にできた時には、こんなに簡単にできるものかと半ば愕然としたが、これらを「われわれの」ものにはできないのだろうか。

 多くの公立施設に対して、もっと使いやすく柔軟な利用ができるような働きかけができないものか。また、既存の私設の劇場は、十分使われているだろうか。

 アイホールでは、劇団態変と大野一雄のコラボレーションをはじめ、90年代から本当にお世話になってきた。あの空間、周囲の街並みが本当に好きだ。うらやましい。ジャズがあって、たこ焼きがあって、美術館があって、JRでも阪急でも帰れる。昔は銭湯もあったな。アイホールの問題は伊丹市だけの問題ではない。物理的にいってもすべての劇場は永遠に続くわけではない。他の施設をアイホールのように育てることも含めて、アイホールがなくなるとしても、それが関西の舞台芸術の終わりではない。まぁ、意外になくならないんじゃないかとも、思ってるんだけれども。

(8月27日受領)

竹田真理(ダンス批評)

 

 アイホールからダンス関連プログラムが一掃されて以来、すっかり足が遠のいている身としては、この度の存続危機に対し即座に反対を唱えるには、少々複雑な思いがある。現在の事業内容は明らかに多様性を欠いているし、一部の演劇分野に特化するならするで、その意義について魅力ある情報発信がなされているかと言えばノーである。とはいえ、示されている解決案は、長びくコロナ禍と前世紀的発想の国家イベントの末路を目の当たりにしたこのタイミングにあって、経済効率優先に変わる別の価値観と社会運営の方法を探ろうという機運に対して、あまりに大きく外している。というより、まだ議論も十分には尽くされていないのだろう。この度の騒動をむしろきっかけにして、行政、市民、観客、アーティストで議論を重ねながら、劇場法前文が謳うように、「新しい広場」であり「世界への窓」であり、人々の大切な「公共財」たるアイホールの新たな形を作っていくことができたらと、願うばかりだ。

8月26日受領)

伊丹アイホール存続活動に寄せて/須川 渡(演劇研究)

 これまで沢山のすぐれた舞台芸術作品を観劇し、その恩恵を私自身数多く受けてきた。関西を離れ、いっそうその劇場の価値に気づかされている。だからこそ、伊丹アイホールの歩みや今後の展望をていねいに示すべきだと感じている。
 特に2000年代以降のアイホールは、観客として訪れる機会の多かった私にとっても、大切な学びの場だった。海外アーティストの招聘や翻訳戯曲の上演、「伊丹の物語」プロジェクトのような地域に焦点をあてた作品の創作など、その活動は地道ながら、地域の内と外をつなげる場所として重要な役割を担ってきた。私は現在福岡在住だが残念ながら新型コロナの影響で中止となった、北九州芸術劇場による『まつわる紐、ほどけば風』もアイホールで上演される予定だった。伊丹アイホールは国内外の劇団のハブになっている。有名劇団が上演していることも事実だが、それだけにとどまらない様々な活動を着実に続けていることはもっと評価されてもよい。
 一方、演劇コミュニティ内だけの働きかけでは、その価値を見出し難いことも確かだ。アイホールの他にも、伊丹には美術館や音楽ホールなどの文化施設があるし、「鳴く虫と郷町」のような魅力的なイベントもある。各施設と連携を続けながら、演劇の外側に積極的な働きかけを行う必要がある。駅前の立地だが、観劇後すぐに伊丹の町をあとにしてしまう…というのは寂しいことだ。
 遅かれ早かれ、このような問題は今後も起こり得るし、これまでも関西では、精華小劇場やウルトラマーケットをはじめとする劇場の閉館があった。十年経って、それらの劇場で行われたことを振り返るのが難しくなっていることには危惧を覚える。
 いつ何が行われていたのかを共有するというシンプルな話だけでも、次へのステップになる。それについても微力ながら尽力したいと思っている。

​(8月31日受領)

takeda
jonen
sugawa

伊丹アイホールの功績/西堂行人(演劇評論家・明治学院大学教授)

 伊丹アイホールで「世界演劇講座」を始めて8年になる。もともとこの講座は、日本橋の近大会館で2006年から開始したものだが、会館の閉館にともない、会場をアイホールが引き受けてくれて継続できた。それからちょうど同じ年数を開催したことになる。あっという間でもあったが、思いもかけず長くお世話になったものだとも思う。これもひとえに、スタッフを含めて、居心地の良さが、大きな要因だろう。
 計16年の中で前半と後半で講座はかなり趣きが変わった。いちばん変わったのは、受講生の顔触れである。近大会館時代は、何か表現に関わりたいという者が集まってくる場だったことが印象に残っている。太田省吾さんの「なにもかもなくしてみる」に触発されて、この言葉をもとに戯曲リーディングを企画し、「番外公演」にまで発展させた受講生もいた。
 伊丹アイホールに移ってからは、熱心な演劇愛好者が集まる講座となった。やはり劇場に付いている観客の強みが反映されているのだろう。受講者数も倍近くに増えた。戯曲セミナーと重複して受講する人や、ワークショップに参加する者もいた。劇場のアウトリーチがきちんとなされている証だろう。現代の日本で行なわれている演劇に実践的に関わろうとする受講生が多かったのが次の展開のきっかけになった。それまで目的としていた「世界」演劇講座は、「日本」演劇を歴史的、理論的に探究する講座へと徐々にシフトチェンジしていったのだ。今年度は、とうとう「アングラ」を徹底的に考察する企画に行き着いた。 
 率直に言って、これだけ良質な観客に支えられた劇場は、全国的に見ても稀有だと思う。現代演劇に関心を寄せる観客を組織する劇場は他にない。その観客を育ててきたのが、伊丹アイホールのプログラムなのだ。同劇場は関西の有力劇団はもとより、首都圏からも人気劇団の公演場所でもあった。大阪の劇場が次々閉館する中、アイホールが最後の砦だった感すらあった。
 その伊丹アイホールの存続が今、危ぶまれているという。アイホールが閉館すれば、間違いなく歴史的な損失になろう。伊丹市にとっても、文化への理解の乏しい街として、対外的にも面目を失うだろう。撤退は絶対にあってほしくないし、あってはならないことだと改めて思わざるをえない。

​(9月2日受領)

nishidou

岡田蕗子(演劇研究)

 アイホールの用途変更の問題を知ったのが7月。演劇専門の劇場ならではの魅力ある舞台芸術に出逢わせていただいた身としては、なぜ用途変更をする必要があるのかと驚きながらもとりあえず伊丹市の考えを知るためにウエブサイト上で公開された資料「伊丹市文化施設(文化会館・音楽ホール・演劇ホール)の再配置検討 及び演劇ホール活用にかかるサウンディング型市場調査の経過報告」を読んだ。文章からは市民の利用率が低いことや収益が低いこと、老朽化の問題など、様々な理由が書かれており、難しい問題なのだなとは思ったが、腑に落ちない部分もある。
 例えば、報告書の8ページにある、「実質稼働」という言葉である。

    平成30年度の各室の稼働率を見ると、イベントホール63.0% カルチャールームA     58.7% カルチャールームB 38.8% となっており、イベントホールが高い稼働率となっています。(略)イベントホールの稼働率の内訳をみると、825コマのうち520コマが稼働していますが、演劇事業の特性として、準備やリハーサルなどにより施設を使用しており、公演を市⺠に提供していない日も稼働していることになります。この公演事業で準備やリハーサルによる稼働を除くと、実質稼働は260コマとなり稼働率は31.5%となります。(青字は著者による)

青字の箇所にあるように、ホール自体は稼働しているが実質稼働率は低い、という論理の組み方に違和感がある。悪いとも良いとも言葉では書かれていないが、稼働率が31.5%と書かれると稼働率が低くて良くないと文章構造で言外に示されているようにも感じられるのだが、そもそも準備をしている期間もホールは稼働しているのに、なぜ本番だけを「実質稼働」と分けて書いているのだろうか。「実質稼働」という言葉は単に「実質的に稼働している」という意味ではないのだろうか。
 とりあえず検索サイトを利用して簡単に調べてみると「実質稼働」という言葉ではないのだが、公益社団法人日本印刷技術協会が出している稼働率に関する記事の中に「実稼動率」と言う言葉の説明があった。実稼働率とは、「実働時間に占める主体作業時間の割合である。実働時間、すなわちお金を稼ぐために使える時間の内、まさに製品を作り出す作業に使っている時間の比率である。(https://www.jagat.or.jp/archives/3154)」という。具体例としては、印刷機の場合は本刷りの時間が「主体作業時間」となり、その本刷りに至るまでの版替えや見当合わせ、色調補正の時間は「準備作業時間」となるようだ。
 仮にこの稼働率に関する区分の方法を参照しつつ報告書の文章を読むと、理解の足掛かりができる。印刷機の場合の「本刷り」に該当する「主体作業時間」が、ホールの場合は「公演当日」であり、「版替えや見当合わせ、色調補正」に該当する時間がホールの場合は「準備やリハーサル」の時間なのだろう。報告書を書いた人は、「主体作業時間」と「準備作業時間」を分けて考えることを日常的に行っている人で、だから、「本番」と「準備、リハーサル」を分けて稼働率を計算して分析をしたのかもしれない。「実質稼働」の一言を巡って勝手な推測を繰り広げてしまったが、その推測が合っているかどうかは置いておいて、報告書の中の言葉が、しばらく考え込まないといけないような言葉であったことは確かである。報告書作成者の常識と私の常識が食い違っていたといえるかもしれない。
 こういう食い違いは日常的におこるもので、決して珍しいことではない。常識のずれがあるとしても、そのずれを埋める機会があれば、お互いに良い結果を生むことができるだろう。報告書を書いた人と対面で話をしてみたいと、報告書を読んでまず思った。伊丹市側もサウンディング調査をしてこの報告書を書いているのだから、他者の意見を聞きたいと思っているのだろうが、そのサウンディングの相手に、舞台芸術の創作者や観客といったホールを利用してきた当事者や、舞台芸術の価値をマニアックに追及し続ける研究者といった専門家をぜひ入れてほしい。もし、市役所の論理が既存の経済論理で動いていて、その数式の中で考えるとホールの用途変更にしか行きつかないという苦しみを抱えているのだとしたら、当事者や研究者の視点を入れて考えることでその苦しみの解消策が生まれるかもしれない。例えば既存の稼働率計算ではホールの実質稼働率を出すことはできない、という論理も生まれるかもしれないし、新たな思考や論理の文脈が生まれると予算を獲得してくる手段も増えるかもしれない。
 そういう気持ちを込めて、「アイホールの存続を望む会」が募っている署名に名前を寄せた。この署名は8月末に伊丹市に提出されたということなので、市との対話はようやく一往復した形になる。今回のような問題は、私が暮らす大阪でも、森ノ宮の大阪府立青少年会館(森ノ宮プラネットホール)や難波の精華小劇場、大阪城公園のウルトラマーケットなど、様々な劇場を巡って生じてきた。個々の文脈は異なるので一概に同じとは言えないが、それでも類似の経済的な課題は劇場には常についてきていたように思うし、今後も避けられないだろう。他人事ではなく、今後も共に考えていきたい課題である。

(9月2日受領)

okada
kogo

誰しも皆(everyman/Jederman)の関心であるコモンの話
/古後奈緒子
(舞踊史研究、舞台芸術批評)

 

 新型コロナウィルスの影響下の生活が日常となって、はや1年半。みなさんそれぞれの"現場"から、世界はどのように見えているでしょう。
 第一波の下では国や職の違いを超え連帯を促したこの関心をめぐっては、その後、各国政府および地域行政の対応により、様々な差が出てきました。わかりやすい例が、この一年の間にも合理化の方針を変えることのなかった、医療を受ける権利にかかわるものです。第5波の下、適切な医療を受けられない人、そのため命を落とす人が出るようになって久しい8月、今後はそれが普通ですといわんばかりの政府の方針転換が、現場の声や専門家の意見を聞くことなしに発表されました。月末には、コロナ患者を受け入れてきた病院の中から初の倒産が出るという、理不尽な事態が起こっています。この「政府は何もせえへんのんや・・」という感覚に私たちは、ここ数年の災害ごとに少しずつ慣らされている。
 アイホールの存続に際して、なぜこの気の滅入る話題に触れたりするのか。お察しのとおり、問題の構成がところどころ似ていて、とりわけ大きすぎて議論になりにくい枠組みが同じだからです。
 詳細は繰り返しませんが、アイホールの「用途転換」は、伊丹市総合政策部による「サウンディング型市場調査」の結果として6月に公にされました。劇場の歴史を知る者にとってその方向性は、後に触れる、設立時の文化政策からの方針転換とも受け止められるものです。けれどもそれは、よく準備された根拠に選択を組み合わせたまあまあ妥当性のある決定事項として、調査の前提にすでに折り込まれてしまっている。さらに、この耳慣れない調査方法は、民間の事業者を対象とするものなので、過去の政策に照らして名実ともに実績をあげてきた専門家ははずされる格好になりました。
 コロナとオリンピックに世間が頭も手も耳目も奪われた時期の動きに加え、こうした問題化のしにくさ、議論の場のなさゆえに、この動きに反応を返せたのは「アイホールの存続を望む会」くらいとなっています。彼らは対話を求めているのですが、双方の出している文章をちゃんと読まないと、なんとなく問題が、(市外からやってくる)劇場利用者と「市民」(伊丹市は、市内在住という限定的な意味を強調してこの言葉を使っています。)の対立のように見えてしまいはしないでしょうか?けれども、伊丹市の歩みから丁寧に説き起こした経過報告書に色濃いのは、むしろ国が全国的に推進する公の縮小、官から民へという流れだと言えます。それは人口動態の問題に照らして不可抗力だけれども、プロセスが適性に進められるかは、居住地域にとらわれず、本来の意味での「市民」が見守り関ってゆく必要があるものだと思います。
 「不可抗力」と言ったのは、報告書ですでに前提となっている根拠が、「少子高齢化社会に備えた持続可能なまちづくり」、その一部として欠かせない「公共施設の再編」だからです。いずれも、平成26年あたりから、総務省や国土交通省らが全国の自治体に調査を促しスキームを提供し、それまで公が担ってきた施設や事業の統廃合と民間への移譲や運営委託を推し進めてきた動向です。まあ仕方ない、と誰もが思う。時期的には震災後、経済成長期に由来する社会システムの見直しの機運が高まり、人口動態の問題がまずは労働者不足で産業が回らないという目先の危機として顕在化した頃。その中でバブルの時期に建設された文化施設が真っ先に見直しの対象になるのも、理ではあります。とはいえその手続き進め方がとても大切で、様々な分野の専門家と市民が議論に参加できる仕組みが、実践知として求められます。国や企業に地域のことをどのくらい考えてもらえているか見ておく必要があるし、現場で関った人たちがどれだけ優秀でがんばっても残念な結果になることはある。その時、責任の所在を問えない組織に任せっぱなしだったかどうかは、その後の地域コミュニティのかたちに影響するのではないでしょうか。
 「アイホールの存続を望む会」のメンバーが関わるトークに、いみじくも「住み開き」で有名な大阪の場が連なっています。確かにコトは、誰もがふらっと立ち寄り利害なしに対話や活動に参加したりしなかったりできる場所を、社会全体の中でどう守ってゆくかにかかわっています。近年の都市計画論の中で、家や職場以外の居場所を持つことが注目されていますが、そうした「サードプレイス」になりうる場所として、皆のものだが誰のものでもない「コモン」な空間があるかどうか。それは、街だけでなく、私的領域である家や競争の場である職場も含めて、私たちの環境が暮らしやすくなるか、生きにくくなるかに大いに関っています。
 一方、民営化を選ぶなら選ぶで、管理者が営利を追求していい、それどころか駅前一等地を使ってもらうからには税収をがんがん上げて、市に収めてもらえるように、厳しく期待してゆく必要があるとも思います。今出されている案に目を向けると、クライミング施設が提案されたサウンディング調査の後、経過報告にもスポーツ系の案が並んでいますね。オリンピック前後の注目を抜け目なく見込んだ民間企業がすでに近隣に存在する中、あんな感じで終わった今から計画して施設を建て替えて、子供に招待券を配るとか、稼働期間は3〜10年とか、初期投資を市がもつ案が入ってるとか、いろいろ大丈夫なのか。確実に儲かるのは、またスクラップ&ビルドするとこだけちゃうのん、知らんけど。と、おばちゃんのお財布感覚では思ったり思わなかったり。
 コストと採算、持続可能性以外にも心配なことはあります。そもそも、社会全体で維持されるにこしたことのない公の事業や財が、未来の負担に焦点をあてることで、縮小を当然とみなされるようになること。一つの事例ができれば説明すべき根拠が前提化し、この流れが全国化すること。地域に固有の事情の評価や説明が省かれるようになること。地域の魅力を増してきた歴史ある活動が軽んじられ、公共財の現在の資産評価が低く抑えられること。組織的な評価により、いずれも大切な機能を担ってきた公共施設同士で競争させられること。その評価に収益という、ゆえあって公が度外視してきた尺度が持ち込まれ、さらに幅をきかせるようになること。こうして挙げてきた懸念の中には、公共の施設や土地が民間に有利な条件で提供されるリスクを高めるものが少なくありません。これは、コモンの論理や市場原理、最近注目のケアの論理など、どの法秩序が支配する領域を、社会の中でどれくらいの割合にし、どこに配置していくかといったことに関わる問題なのです。
 最後に、この議論の中でなぜかさらっと触れられるにとどまる、アイホール設立当初の伊丹市の文化政策を思い出しておきましょう。街が劇場、登場人物は住民と謳う「劇場都市」宣言です。伊丹市に芸術ジャンルを網羅するような公共施設を建ててゆく根拠となったものらしく、祝祭都市論はなやかかりし80年代の香りがします。確かに当時の文化予算の構成とその規模を見ると、遠い目になってしまうところはある。ですが、1990年代から30年近くアイホールに通った者にとって、このブランディング戦略はとても腑に落ちるもので、決して過去の夢とか絵空事と片付けられるものではありません。それは、舞台と客席を自由に組み替えられるこの劇場を拠点に、他の文化施設や史跡やグルメや銭湯が構成するこの街の可能性を学び、使い尽くそうとしたプロデューサー、芸術家たちの仕事が、世界演劇と伊丹各所の記憶を結びつけているからだと思います。
 芸術家たちはまた、この街が県境にあり、広域文化圏の古層を持つことを、可視化し体験可能にしましたが、そうした仕事は、昨年一〇〇年を祝った演劇祭を擁するかの演劇都市をも思い出させます。パンデミックの中、わたしたちは同様の災禍を扱う歴史や芸術作品に拠り所を求めました。第一次世界大戦とスペイン風邪の流行を経て演劇祭を興した詩人の言葉を、ここに紹介しておきましょう。
 「劇場(演劇)は、われわれの「まつり」の喜び、見る楽しみ、笑う楽しみ、感動する悦楽、緊張、興奮、戦慄などを、古くして永遠な人間種族の昔からもっている「まつり」の衝動と直接に結びつけてくれる世俗的な施設のなかで、ただひとつ生き残った、強力で普遍性を備えた施設である。(中略)演劇に身を委ねるものは、他の文化との境界や結び目となっている多くのものを、飛び越えることができる。」(フーゴー・フォン・ホーフマンスタール「芝居」『ホーフマンスタール選集3』岩淵達治訳)

(9月6日受領)

アイホール問題を考える/瀬戸宏(演劇評論家)

 兵庫県伊丹市にあるアイホール(AI・HALL、伊丹市立演劇ホール)が廃館になるかもしれない、という情報を知ったのは7月下旬のことだった。アイ・ホールの意義はActの読者には説くまでもない。私はAICT国際演劇評論家協会日本センター関西支部の支部長なのだが、すぐに支部会員に諮って、とりあえず関西支部が「アイホールの存続を望む会」の賛同会員になった。まもなく、日本本部も賛同会員になった。
 しかし一方では、来るものがアイホールにも来たか、という印象を持ったことも事実である。4月に兵庫県豊岡市長選挙で平田オリザ氏の構想を支持し推進してきた現職市長が僅差で落選する出来事があり、地域と演劇について考えているところであったからである。豊岡市長選では演劇対策が選挙の争点の一つになり、対立候補が平田氏らの演劇について候補者討論会で、市民が無視されていると事実を挙げて批判することがあった(注)。その候補は市長当選後に市議会で事実誤認があった、と認めたという。これらはいずれも神戸新聞電子版の記事で知ったのだが、候補者討論会で選挙争点について事実誤認の発言をしそれが当落に関わったのなら、市民や市議会から強い批判の声があがっても不思議ではない。しかし神戸新聞電子版をみる限りそのような動きは見えない。現市長の発言は、それ自体は事実と違っていても豊岡市民のかなり多くの感情を背景にしているのでは、と考えざるを得なかった。
 6月の日本演劇学会大会(オンライン、27日)で平田オリザ氏がパネラーのシンポジウムがあったので、この件について平田氏に直接質問したのだが、進行中ということで、平田氏の返答も事実確認のみの慎重なものだった。豊岡演劇祭に行ってできる範囲で豊岡の地元の声を聞いてみよう、と思っていたのだが、コロナ禍で演劇祭が中止になったのは残念なことであった。


 問題が深刻なのは、これらの演劇否定の動きが決して豊岡や伊丹だけ、また演劇だけの問題ではないことである。21世紀に入って日本全体の衰弱が加速され、一見ムダにみえるものを許容するゆとりが失われていることが背景にある。この動きが最も進んでいるのは周知のように大阪で、演劇に限っても精華小劇場など多くの劇場が閉鎖された。だが“ムダ”を切り捨てた結果どうなったか。保健医療部門の大幅切り捨てにより、今回のコロナ禍で、大阪府は人口が東京都の6割余りにもかかわらず、死者数は東京よりも多い。
 反対運動は、この現実を頭に置いておく必要がある。「アイホールの存続を望む会」賛同メッセージを読むと、演劇は生活に必要、経済効率では計れない、という類のものが多い。しかし、生活に必須のものすら切り捨てられて久しい現在、単に演劇の必要性を抽象的に訴えるだけでは、演劇に直接関係しない市民からは、同情どころか反発を受ける可能性すらあるのではないか。演劇は自他ともに許す“ムダなもの”だからである。
 今回、アイホール存続の立場で問題に取り組んでいる伊丹市議会議員のおおつる求さんと連絡が取れた。おおつる議員が悩ましい問題だと言われるのでその理由を尋ねたところ、次のような返答があった。おおつる議員の同意を得て要旨を転載する。

■大方の市民が関心ない事。
私もこの仕事をしてなければ、へーって感じだったと思う。アイホール地元の方からも冷ややかな反応が多い。
■多くの議員の無関心
私は色々と調べたり、話を聞いて、アイホールの凄さを知ったが、そんな動きをしていない多くの議員は無関心で、市外の方々が騒いでいる、くらいの感覚。
■職員も諦めムード
担当職員と連携したいが、オフレコ話でも熱いものを感じられない。
■文化・芸術を数字で判断し、活かして街づくりをしようという考えが市長に無い。
これは新自由主義がはびこる、この国の現状。
■そんな中で、アイホールのポテンシャルやブランディングを活かしたい、と考えている。その為には、少なくともホールを残す事が必要。

 以上がおおつる議員の返答だが、伊丹市当局は一方で、市のブランドを創り出すことに必死だという。


 ここで、私は私の居住市高槻市のことを思い出す。アイホール問題が公然化したのとほぼ同時期の今年7月、関西将棋会館が2023年に高槻市に移転することが本決まりになった。高槻市が市有地を提供し、「13億円程度の移転費用は、同市がふるさと納税制度を活用したクラウドファンディング(CF)を行い、支援する」(2021年7月29日産経新聞電子版)という。高槻市営バスの車体や駅前には、「新たな将棋の聖地に!祝 関西将棋会館が高槻市へ」という高槻市の宣伝広告があふれている。関西将棋会館移転は高槻市当局と日本将棋連盟が決めたことで、市民が盛り上げた誘致運動の結果ではないと思うし、関西将棋会館が移転してどれだけの経済効果があるのか私は知らないが、高槻市当局は宣伝に相当するだけの充分な見返りがあると考えているのだろう。
 関西将棋会館が高槻市のブランドになるのなら、アイホールは充分に伊丹市のブランドになると思うのだが、伊丹市当局や伊丹市民の多くにその発想が出て来ないのは、なぜだろう。アイホール問題が表面化した直接の理由は、建物が老朽化して約4億円の改修費用が必要になったからだというが、これこそ伊丹市が「ふるさと納税制度を活用したクラウドファンディング(CF)」などでまかなえないのだろうか。


 ここから、少し言いにくいことを書く。
 アイホールは1988年創立で、今年で33年になる。33年は決して短い時間ではない。なぜ33年たってもアイホールは伊丹市でブランド価値を樹立できなかったのだろうか。アイホール関係者は、関西や全国の演劇界には目を向けていただろうが、伊丹市民の方にはどうだっただろうか。演劇の価値を積極的に市民に宣伝していたのだろうか。こう書くと、アイホール関係者は決してそんなことはない、と言うだろうし、アイホールの事業にAI・HALL中学高校演劇フェスティバル(伊丹市内中高生演劇部対象)などもあることは知っているが、伊丹市当局や伊丹市民への働きかけが結果として極めて不十分だったことは、先に引用したおおつる議員の返答が示している。
 十年近く前、橋下大阪府政で文楽が潰されそうになった時、全国的に文楽を潰すな、という声があがった。私も、勤務校の摂南大学が日本演劇学会全国大会の開催校だったので、全国大会で文楽問題の分科会を作るなど、ささやかな関与をした。重要なのは、文楽を潰すな、と市民が身銭を切って文楽のチケットを買い公演を観にいったことである。コロナ禍で今はそうでもないが、一時期はチケット入手が困難になるほどだったと記憶している。
 ここまで演劇と書いてきたが、アイホールが主に上演してきた演劇は、現代演劇、その中でも小劇場演劇と言われる演劇である。現在はかなり様相が違っているが、小劇場演劇はもともとは実験、前衛演劇であり、わかる人だけ観に来てくれればいい、という立場が出発点の演劇である。その開始にあたっては、公的助成などまったくなく、多数の観客による収入が期待できないから、小さい空間でしか上演できなかったのだ。それが、先人たちの苦闘の結果、その意義がしだいに認められ、公的助成も受けられるようになった。しかしながら、現代演劇は税金で保護されるにふさわしい、国民の財産と認められるような作品をどれだけ創り出してきただろうか。文楽はその価値が認められているからこそ、広汎な保護運動が起き、詳しい内情は知らないが、2021年の現在も存続している。これは個々の演劇人の努力の範囲を越えることかも知れないが、時にはそういう問いかけ、内省があってもいいと思う。
 アイホール問題は、そこまで根が深い内容を含んでいるのではないか。アイホール問題の結末がどうなるか、まだわからない。幸い9月議会ではアイホール関係の提案はないが、12月までには必ず出て来るという。存続の方向で結論が出るよう私も微力を尽くしたいが、日本全体の情勢の中から問題が生まれてきている以上、アイホール問題の直接の結果がどうなろうと、類似の問題は今後も日本の各地で起きてくるだろう。演劇関係者は、問題が起きてから慌てふためくのではなく、今から準備しなければなるまい。私はアイホール運営の内情はまったく知らないのでこの文にも思い違いがあるかもしれないが、一つの問題提起として書かせていただいた。

(注)
 候補者討論会での対立候補関貫久仁郎氏の発言。(神戸新聞NEXT(電子版)2021年4月17日)
>ここ(市民プラザ)で市民の子どもたちのダンスをやっている団体が、あるときからここはもう使用できないと宣告されたそうだ。なぜなら平田オリザさんのコンテンポラリーダンス、そっちをメインでやりたいと。そこで市民の楽しみを奪ってしまった。そんなことが許されるのか。それで演劇のまちづくりと誇れるのか。
https://www.kobe-np.co.jp/news/tajima/202104/0014248251.shtml?fbclid=IwAR0-0sp3TAodTmq_24xYkAcOL3xmcUVwlFX96eujsMsYe8ZmqQ9ugY6nLMM 2021年9月8日閲覧。
 その後、神戸新聞電子版6月15日記事によれば、新市長の関貫久仁郎氏は市議会代表質問の答弁で事実誤認があった、訂正したい、と発言したという。平田オリザ氏が『世界』連載中の「但馬日記」によれば、平田氏はコンテンポラリーダンスはしていないという。

​(9月8日受領)

seto
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