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2023年6月
無罪か、有罪か?ー―手話裁判劇『テロ』を観て■岡田 祥子
昨日に向かって撃て! 令和日本の『サンシャイン・ボーイズ』
加藤健一事務所公演 vol.107■瀧尻浩士
身体で動かすアニメーション――舞台『千と千尋の神隠し』■藤城孝輔
日本女性の死はなにを解放するのか ノイマルクト劇場 & 市原佐都子/Q『Madama Butterfly』
■柏木純子
無罪か、有罪か?
手話裁判劇『テロ』を観て
岡田 祥子
撮影:河西沙織(この項すべて)
2022年10月9日(日)17:00から神戸新開地「神戸アートビレッジセンター」2階KAVCホールにて手話裁判劇『テロ』(作:フェルナンド・シーラッハ・演出:ピンク地底人3号)を観た。「手話裁判劇」という語に内容の難解さを予想して臨んだが、わかりやすくてあっという間に時間が経ち、しかし観劇後には何とも言えない重いものと逆に明るい昂揚感のようなものが心に残った。
まず、「裁判劇」と名づけられた由来だが、原作の戯曲自体が虚構でありつつもリアルな裁判記録の形式をとっており、簡単なト書きと法廷に立つ関係者の発言のみで構成されているところから来ていると思われる。
裁判で審議された事件とはこういうものである。2013年7月ドイツ上空で164人が乗る旅客機がハイジャックされた。テロリストは7万人の観客がひしめくサッカースタジアムに機体を墜落させようとしていた。近辺を警戒飛行中だった空軍機2機が当該機に追いつく。隊長のラース・コッホ少佐は命令を受けて警告射撃を行ったあと、自らの判断で空対空ミサイルを発射し旅客機を撃墜した。スタジアムの群衆は無事だったが、旅客機の全員は死亡した。さて、少佐は無罪か、有罪か? 法廷陳述の一部始終に観客は立ち合うことになる。公演は2部構成で、第1部終了後、観客は被告が有罪か無罪かのいずれかに投票し、結果によって、第2部で判決が言い渡される。筆者の観た回は拮抗してはいたものの全体での判断は有罪だった。二様の結末が用意されており、観客(戯曲では読者)に選択を委ねる形は、作者シーラッハの発想であり、演出のピンク地底人3号はそれを踏襲したのだが、この設定は演劇として効果的だと感じた。自分の判断が劇の行方を左右する事態は観客の責任感を呼び起こし、安全な客席に居ながら、もはや他人事ではなく、作品の重いテーマと向き合うこととなる。赤か黒か? 無罪あるいは有罪を示す2枚のコインを握りしめて、1部の最中も筆者の頭は働き続け、休憩時間に入り投票箱にコインを落とす瞬間まで激しく迷い続けていた。1枚のコインを選ぶ責任を託されただけで、当事者意識と臨場感が増すと実感したとき、日ごろ観劇慣れして対岸の火事のように舞台を眺めることのある自分の在り様が反省された。ちなみに日本で行われた公演はすべて有罪判決となったというが、私は無罪に票を投じた。ラース・コッホ少佐が犯した164人の大量殺人という罪に対し、裁かれるべきは軍という機構と法の不備であり、もっと言えば、テロを引き起こす要因となった国際間の軋轢ではないかと考えたからである。少なくとも、軍人という鋳型に嵌められ、あげくに追い詰められた一人の人間、ラース・コッホではないと感じた。観劇後心に残った重たさは全体の秩序のために潰されてゆく個人の悲劇を見たことにあっただろう。
開演前に配布された舞台資料には「本公演は、日本語と手話の表現を用いた公演となり、日本語字幕付きで上演します。一人の役を発声の俳優、手話の俳優がそれぞれ同時に演じる、二人一役の形となります。ろう者、聴者、視覚障がい者が同じ舞台に立ち、発語と手話を交えた演劇作品です。」とあった。筆者が難解さを予想して観劇に臨んだ理由のもう一つは、今までの舞台で観たことのないこのスタイルにあった。一人を二人が演じ、セリフは手話・発話・文字という三種類の言語で表現され伝達される。演者を見ることにおいてもセリフを理解することにおいても煩雑になりすぎはしないかという懸念を抱いていた。
しかし、予想は見事に覆された。言葉は淘汰され、段階を踏むことによって、より丁寧に練られたものとなって、観客に沁みこんでいった。聴者である筆者に、手話はこれまで縁の薄いものであり、手話ニュースで通訳者の姿を見るぐらいの経験しかなかった。今回裁判の難しい弁論の過程を追おうとして、発話者の言葉に集中したが、気づくと手話者をも注視していた。たとえ手話がわからなくとも手話者の目まぐるしく変化する表情や息づかい、豊かなボディランゲージは、語られている内容や演者の気持ちへの理解を随所で深めた。
どの役においても絶妙なコンビネーションで二人一役は演じられていったが、とりわけ被告である二人のラース・コッホ(手話:藤田沙矢夏・発声:石原菜々子)は息が合い秀逸であった。二人のコッホが存在することによって、一個の人間の持つ多様性、内面の複雑さや葛藤が視覚的にも表現されることとなり、劇の進行につれ熱量は増していった。いつの間にか二人は一人に感じられていた。被告に厳しい判決が下ったとき、発声のコッホがうなだれる手話のコッホの肩に静かに手を置くシーンは、出発点から矛盾を含んだこの裁判劇のしめくくりにふさわしいと感じた。
もう一人、事件で夫を亡くし、証人として法廷に立ったフランツィスカ・マイザー(関場理生)が印象に残った。関場は視覚に障がいがあり、手話者との関係が他と若干違っていたせいもあるかもしれないが、悲しみと理不尽を訴える一貫した彼女の主張は、法律の専門家たちの熱気を孕んだ丁々発止の応酬のなかで、澄みきってひときわ異彩を放っていた。原作の戯曲のなかでもマイザーの証言は裁判の流れにかなりの影響を与えたと感じられるが、加えて舞台のマイザーは揺らぎのない信念を抱き、全身から怒りを放っていた。その彼女を舞台上で大きく歩かせ、最後に正面中心に据えた演出は、マイザーを聖母か観音像のように見せて象徴的ですらあった。
このような舞台を筆者は初めて観、斬新でインクルーシブな表現が出現したことに驚き、感動した。観劇後心に残った明るい昂揚感とは、新しい表現の誕生を目撃したかもしれないというときめきだったかもしれない。
■岡田 祥子(おかだ・さちこ)
大阪在住の会員。元高校の国語科の教員で、定年まで演劇部の顧問として、高校生とともに戯曲に向き合い芝居作りを楽しんだ。現在は大阪大学大学院人文学研究科日本学修士課程に在籍、聞き取り調査を軸に戦後大阪の一般公衆浴場の歴史を研究している。芝居は1970年代後半から関西の小劇場演劇や新劇を中心に、維新派、少年王者舘、状況劇場からの唐組などを観てきた。劇評は應典院のレビュアー、ACTへの寄稿者として書きはじめた。NPO法人「旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会」の理事でもあり、現在エコミュージアムの観点から演劇で戦争を伝える活動に取り組んでいる。
神戸アートビレッジセンター(KAVC)プロデュース公演 手話裁判劇『テロ』
2022年10月5日(水)~10日(月・祝)全10公演
神戸アートビレッジセンター KAVCホール
ドイツの小説家/弁護士のフェルディナント・フォン・シーラッハの演劇作品。2015年、シャルリー・エブド襲撃事件やパリ同時多発テロが起きた同年にドイツで刊行され、世界各国で上演される。命を天秤にかけることはできないという命題の下、人間の倫理を問う。戯曲には有罪判決と無罪判決の両方の結末が用意され、実際に観客がどちらかの結末を選ぶという上演形式が話題を呼んだ。
原作:『テロ』フェルディナント・フォン・シーラッハ著 / 酒寄進一訳(東京創元社刊)
演出:ピンク地底人3号
出演:山口文子、石原菜々子、北薗知輝、木下健、古賀麗良、庄﨑隆志、関場理生、田川徳子、藤田沙矢夏、宮川サキ、森川環
昨日に向かって撃て!
令和日本の『サンシャイン・ボーイズ』
加藤健一事務所公演 vol.107
瀧尻浩士
撮影:石川純(この項すべて)
左から、加藤健一、佐藤B作
人としても役者としても齢を重ね、語る台詞を超えてその佇まいそのものがすでに圧倒的な雄弁性を放っている、そんな俳優が年々少なくなっているような気がする。その代わり、60代、70代になっても若手俳優と伍してギラギラとしたエネルギーを放ち、観るものを圧倒し感嘆のため息をつかせる俳優の層が厚くなってきたとも言える。下手をすれば主役の若手は、彼ら/彼女らに喰われてしまいそうになる。だがそれは決して悪いことではない。芝居がその時代の人間の姿を映すなら、それが今の中高年のありようあるいは願望を同年代の俳優たちが体現してみせているのかもしれない。
「人生100年時代」の高齢化社会である今の日本においては、できるだけ若さを保ち続けることが自己への至上命令であるかのように、中高年は日々老いることに抗い続ける努力を惜しまない。テレビコマーシャルをみれば、アンチエイジングのサプリとイクイップメントの宣伝ばかりだ。「老いる」ことから目を背ける大衆は、「老いない」俳優に拍手を送り、自らの手本とする。それが超高齢化社会へ突入しようとする今の多くの中高年の姿だ。
ニール・サイモンが書いた『サンシャイン・ボーイズ』は、70代の老コメディアンの話である。1972年のブロードウェイ初演では、ジャック・アルバートソンとサム・レヴェンが主役のコンビを演じた。ともに当時の実年齢は60代半ばだった。映画版(監督:ハーバート・ロス, 1975) ではウォルター・マッソーとジョージ・バーンズが演じた。彼らは当時も今見ても、その姿は十分に老年男性そのものだ。ニール・サイモンは、かつてヴォードヴィルのスターだったウィリー・ハワードの部屋に招かれたとき、その老いた芸人の哀しい姿がサイモンの心に残り、彼がこの劇のモデルとなったと述べている。これらの俳優は、そうしたかつてスターだった老芸人の悲哀を表現するには十分老いた肉体を備えていた。だが今の時代、老いた肉体で魅せる俳優がどれだけいるのか。サイモン喜劇には珍しい、老人を主人公にした『サンシャイン・ボーイズ』という劇を誰がどう演じるか、それが現代において本劇を観る楽しみのポイントとなる。
2022年の加藤健一事務所公演では、そんな現代日本の『サンシャイン・ボーイズ』を観ることができた。本公演は、2020年初日を目前にして新型コロナの影響で中止を余儀なくされたが、2年の経過を経て仕切り直しの上演となった。加藤健一事務所は、過去にも『第二章』、『おかしな二人』など、ニール・サイモン作品をいつくか上演してきた。そのどれもが、その時の加藤健一にあった等身大の喜劇として、ぴったりと役がはまっていて、心地よいサイモン喜劇を味わわせてくれた。
■瀧尻浩士(たきじり・ひろし)演劇研究。宝塚、文楽、上方喜劇、上方落語に上方
漫才といった関西ゆかりの芸能に魅せられ続けてはや半世紀。May the FARCE be with you...
加藤健一事務所 vol.107 ニール・サイモン追悼公演
「サンシャイン・ボーイズ」
2022年5月3,4日
京都府立府民ホールアルティ
作:ニール・サイモン
訳:小田島恒志 小田島則子
演出:堤 泰之
キャスト:加藤健一、佐藤B作、佐川和正(文学座)、田中利花、照屋 実、加藤義宗、韓 佑華
ホテルで一人暮らしの老コメディアンのウィリー(加藤健一)に、彼の甥でマネージャーのベンが仕事の話を持ってくる。テレビの番組で往年のコンビ「サンシャイン・ボーイズ」を復活させ、当時の傑作コントを再現するというものだった。しかしウィリーはコンビの元相方のアル(佐藤B作)を憎むほどに毛嫌いしていて、その出演依頼を拒む。というのもアルは突然引退を宣言し、ウィリーを残してコンビを勝手に解消してしまった過去があるからだ。しかしベンの説得もあり、ウィリーは渋々承諾する。コント再現にむけてウィリーとアルは練習しようとするのだが、昔のようにすぐに喧嘩になってしまう。本番前のリハーサルが始まる。コントはうまく行くように思われたが、次第に二人の間の雲行きが怪しくなり、二人はまた揉め始める。興奮したウィリーは突然倒れてしまい、リハーサルは中断する。
このようにウィリーとアルの仲は、コンビ解散後11年のブランクがあっても今なお険悪なままだ。だが二人が言い争う会話は、サイモン独特のユーモアで修飾されているので、観客にとっては、バカバカしい可笑しみにあふれたものとなる。
ウィリーとアルの設定年齢は70代であり、彼らを演じる加藤健一、佐藤B作も共に70歳を超えていて、サイモンのキャラクター設定にちょうど合致する。また本公演は、加藤健一事務所創立40周年/加藤健一役者人生50周年記念公演の第1弾でもあり、その数字が加藤健一の熟成した俳優歴を裏付けている。ところがこの上演には少しの違和感を覚えた。二人が「枯れた老人」に見えないのである。令和時代の日本においては、70歳の設定を80歳に引き上げるか、演じる側が80歳代の俳優でなければ、役と俳優の釣り合いがとれなくなってきているのかもしれない。なにしろ昭和の父の代表格である磯野波平の公式設定年齢が54歳。一方令和の今、波平と同い年の俳優といえば、佐々木蔵之介に大沢たかお、の時代である(2022年現在)。昭和から令和にかけて、外見年齢に10年ほどのギャップが生まれていると言えるだろう。
ブロードウェイ初演の舞台写真をみると、主演俳優たちはしっかり「老人」である。特に映画版のジョージ・バーンズの姿には枯れた味わいが際立っている。バーンズは、芸人から出発して舞台、テレビ、映画で活躍していたが、『サンシャイン・ボーイズ』に出る前まですでに半引退状態だった。見た目も実人生もまさに『サンシャイン・ボーイズ』そのものだったのだ。舞台や映画の彼らは皆、演技表現の前に、俳優の存在として既にその身に「老い」を見せる力を備えていた。
だがそれに比べて、加藤も佐藤もその実年齢は、役の設定年齢に十分届いてはいるが、見た目も演技も「枯れる」どころかパワフルそのものだ。では今回の上演キャスティングはミスマッチだったのだろうか。いや、幕が降りたときむしろ予想とは少し違う、新しい『サンシャイン・ボーイズ』を観た気がしたのである。確かにジョージ・バーンズのような枯れた「老い」の味わいはなかった。だがかつて「老人」を意味したものが現在の「老人」にはあてはまらない今、必ずしも現代の高齢者は、かつての老人と同じ姿である必要がない。加藤も佐藤も実年齢的には高齢者だが、その舞台人としての活躍と魅力は若い俳優に引けを取らない。もはや現代にはいない宇野重吉や笠智衆の姿を求めるより、今の彼らしかできない、現代の老人を演じることのほうが、リアリティーがあると言えるだろう。彼らは現代の「老い」を体現してみせたのである。
2022年の『サンシャイン・ボーイズ』は、1970年代、80年代のそれとは違って当然である。では俳優はこの上演ではいかなる「ボーイズ」になるのか。それは、かつてヤンチャだった若者が、年老いても枯れることなく、そのままオトナになったようなボーイズだった。加藤も佐藤も初演の1970年代には、既存の劇団体系から離れて小劇場を活躍の場とした反骨の世代である。その俳優魂は70を過ぎた今も彼らの俳優としての肉体から滲み出ている。確かに実年齢的には若くない世代だ。だがその存在のエネルギーはまだまだ若い。オクシモロンではないが、彼らは「若い老人」なのだ。そして劇場の大半を占めていた観客層もまた「枯れていない高齢者」たちだった。
上演は、小田島恒志と小田島則子による翻訳や劇中コントの書割りのポップな色使い(美術:乘峯雅寛)などによって現代的感覚に寄せられてはいるが、堤泰之による演出は、概ねテキストに忠実だ。ニール・サイモンのト書きの指示もその通り再現されている。ただ音楽についてはサイモンのテキストには指示がない。どんな曲を使うかは演出の領域となる。ミュージカルを除く、多くのサイモン喜劇で使われる音楽は、それ自体が主張しない軽いBGM程度のものであることが多い。ところがこの上演では幕開きと終幕において、聞き覚えのある音楽が使われている。その曲は妙にノスタルジアを掻き立てる。バート・バカラックの曲だ。バカラックはニール・サイモンと同時代のポップス界のヒットメーカーで、サイモンは彼と映画『紳士泥棒 大ゴールデン作戦』 (監督:ヴィットリオ・デ・シーカ, 1966)と舞台『プロミセス・プロミセス』(演出:ロバート・ムーア, 1968)で組んだことがある。ここでは、舞台初演と同時代の映画『明日に向って撃て!』(監督:ジョージ・ロイ・ヒル, 1969)から2曲が使われていた。有名な主題歌「雨にぬれても」ではなく、1幕冒頭では ”South American Getaway”、終幕では “Not Goin’ Home Anymore”が流れる。曲名は知らなくとも、映画を観たことがあるひとなら聴けばピンと来るはずだ。さりげなく使われたそんな曲に耳を傾けて、舞台上の加藤健一のウィリーと佐藤B作のアルの姿をその音楽に重ねてみると、ジョークを交えた会話で、喧嘩しながらもそれを楽しんでいるかのような二人は、まるで50年後のブッチ・キャシディ(ポール・ニューマン)とサンダンス・キッド(ロバート・レッドフォード)のように見えてくる。まさに「老いた青年」がふざけあっているようだ。
1960年代後半から1970年代半ばにかけてのアメリカン・ニューシネマの時代に生まれたこの映画を、当時二十歳だった加藤健一も佐藤B作も観ていたことだろう。あれから50余年、”Don’t Trust Over Thirty”の時代を生きた若者も、30どころか70歳を超えた。だがその世代は「枯れる」ことなく、体の奥にはまだ当時の思いが今もくすぶっているようにも思われる。そんな「若い老人」あるいは「老いた青年」ともいうべき世代の代表が舞台で演じる『サンシャイン・ボーイズ』は、新しい時代のウィリーとアルの姿を描き出したと言えるだろう。本作は初演以来、老芸人を扱ったこの喜劇の中にあるシリアスな部分が評価されてきた。だが50年経って、高齢者が躍動的に生きる時代となり、老人が抱える問題の意味も変化してきた。高齢者の行動も考え方も、サイモンが描く1972年初演当時の老人像とはずいぶん異なってきている。奇しくもそんな超高齢化社会へ向かう令和時代の日本の姿を映すかのような『サンシャイン・ボーイズ』が生まれたのは、カウンターカルチャー世代の「若き高齢者」たる加藤健一と佐藤B作が有する、熟してなお精強な役者としての肉体の賜かもしれない。50年前、不透明な「明日に向って」撃った彼らは、今度は2022年の『サンシャイン・ボーイズ』の中で、過ぎ去った「昨日に向かって」撃ち、老いを乗り越えるような舞台を見せた。かつての西部劇のバディが、50年経って喜劇のバディとして蘇った。そんな妄想を起こさせる舞台だった。
(京都府立府民ホール“アルティ” 2022年5月4日所見)
身体で動かすアニメーション
――舞台『千と千尋の神隠し』
藤城孝輔
画像提供:東宝演劇部(この項すべて)
ここ10年近く、イギリスを中心に宮崎駿作品の舞台化が相次いでいる。2013年の『もののけ姫』を皮切りに、2016年の『魔女の宅急便』(厳密には角野栄子の小説の舞台化)、さらにこの文章を書いている2022年10月にはロイヤル・シェイクスピア・カンパニー(RSC)の『となりのトトロ』がロンドンのバービカンで上演されている。日本でも2019年に宮崎の原作漫画を歌舞伎にした『風の谷のナウシカ』のような異色作があったが、RSCのジョン・ケアードを演出に迎えた舞台『千と千尋の神隠し』はイギリスでの舞台化の流れに影響されたものと考えられる。それは、かつてのヒット作の実写映画化を執拗に繰り返すディズニーに匹敵するメディア・フランチャイズ化として見ることができるだろう。今や経済力のある大人になった観客がかつて子どもだったころに親しんだ作品と別の媒体で再会する。英語圏におけるこのようなノスタルジア産業が日本でも十分に通用しうるものであることは、本作のチケット争奪戦の白熱ぶりからも一目瞭然である。そんな争奪戦にあえなく負けた私は名古屋での大千穐楽公演のオンライン中継配信でかろうじて作品を見逃さずにすんだ。
ステージを緞帳のように覆うスクリーンには開演前からアニメーションの青空が投影されており、水彩画のような淡いタッチの雲がゆっくりと流れている。下手から登場した千尋が客席に背を向けてステージ中央に座る両親の手前に横たわると、引っ越しの途中の荻野一家が道に迷うシーンが始まる。彼らの乗った自動車は父親が握るハンドルを除いては身ぶりだけで表されており、車の動きに合わせて動く車窓からの景色を描くスクリーン上のアニメーション映像によって移動中の車内のシーンであると了解される。このようにアニメーションに大きく頼った表現は千尋の一家が異界へのトンネルを抜けてスクリーンが上がり、宮崎の原作を精巧に再現したセットデザインが姿を現すまで続く。日常と異界の対比が、ここではアニメーションと舞台芸術という表現媒体の違いによって示されているのである。観客にとって既知であるアニメ映画の原作を意識させつつ、新しい世界を見せようとする意図が感じられる。
とはいえ、物語は映画にきわめて忠実である。「荻野千尋。ま、お前さんにもう名字は必要ないね。もう家族はいないだろ?」と千尋の名前の剝奪についてより詳しく説明する魔女の湯婆婆の台詞や、映画にはなかった「千尋」の名前の回復を劇の最後に示すアニメーションなど、アイデンティティーの喪失と回復という主題を明確にするための台詞や表現の違いは見られた。しかしそのような若干の変更を除けば、映画のシーンは省略や順序の入れ替えなしにすべて盛り込まれている。衣装やパペットの造型もまた映画を大幅に踏襲したものであり、映画で湯婆婆の声を務めた夏木マリが同じ役を演じるのも映画とのつながりを強く意識させる。久石譲の映画音楽をアレンジしたブラッド・ハークとコナー・キーランによる音楽もオリジナル曲でありながら原作からの逸脱や違和を強く感じさせるものではない。こうやって忠実さばかりに目を向けると、この舞台化作品のどこに新しい世界があるのかとあなたは疑問に思うかもしれない。何から何まで同じであれば、そもそも名作を舞台として作り直す意味がどこにあるのか。懐かしさに安住する原作の熱烈なファンであれば、かつて親しんだ原作の世界観が忠実に再現されることにこそ意味があると言うだろう。では、ファン以外の観客に対して本作はどう訴求しうるのか。
その答えとなるのがキャラクターを動かす俳優たちの身体性である。憤怒する湯婆婆の顔や肥大したカオナシといった複数人で操作する大がかりなパペットの動きが見ものであるのはもちろんのこと、青蛙を模してパペットを手に跳ねて動くおばたのお兄さん、黒いタイツを履いた脚をバレエのステップで軽快に動かすランプの末冨真由、竜になって飛翔するハクを操作して激しく身をひるがえす演者たちといった通常の舞台では黒子にあたる俳優が鮮やかな動きで観客の目を引きつける。ステージ上を文字どおり走り回る千尋役の橋本環奈や、怪我を負ったハクが力尽きて倒れているシーンでコロコロと転がりながらステージに登場するハク役の三浦宏規らも単なるリアリズムを超えて身体の躍動そのものをスペクタクルとして提供する。とりわけ、千尋が廃墟の繁華街に姿を現した幽霊たちに追われて逃げまどうシーンは橋本と幽霊の演者たちの動きがシンクロナイズされることにより、限りなくダンスに接近していた。出演者にダンサーやミュージカルの経験者が多く起用されていることやミュージカルの公演によく見られるダブルキャスティングが採られた点も、俳優にミュージカル並みの激しい動きが要求され、怪我の恐れがあったためだろう(ちなみに大千穐楽では本来上白石萌音が千尋、朴璐美が湯婆婆を演じる予定だったが、新型コロナウイルス感染によりダブルキャストのもう一方である橋本と夏木が代役を務めた)。
アニメーション(animation)という語はラテン語で息や魂を意味するanimaに由来する。静止画の連続によって息を吹き込まれ、生命を与えられたかのように絵が動き出すことからアニメーションと名づけられた。この宮崎のアニメ映画の翻案において原作のアニメーション技術に代わって既知の物語に新たな命を吹き込んでいるのは、俳優たちの生身の身体である。舞台芸術の強みである身体表現に重きを置いた演出こそが、本作を見る価値のある娯楽作品として成立させている。原作へのノスタルジアから作品を見た観客も、きっと新鮮な体験を得られたはずだ。できることなら、私も配信ではなく劇場で本作を体験したかった。
■ 藤城孝輔(ふじき・こうすけ)岡山理科大学教育学部講師。専門は映画学(博士)。アダプテーションや沖縄映画を研究している。
舞台『千と千尋の神隠し』
原作:宮﨑 駿
翻案・演出:ジョン・ケアード
共同翻案:今井麻緒子
協力 :スタジオジブリ
製作 :東宝株式会社
出演
千尋:橋本環奈・上白石萌音(Wキャスト)
ハク:醍醐虎汰朗・三浦宏規(Wキャスト)
カオナシ:菅原小春・辻本知彦(Wキャスト)
リン/千尋の母:咲妃みゆ・妃海 風(Wキャスト)
釜爺:田口トモロヲ・橋本さとし(Wキャスト)
湯婆婆/銭婆:夏木マリ・朴璐美(Wキャスト)
兄役/千尋の父:大澄賢也
父役:吉村直
青蛙:おばたのお兄さん
阿部真理亜 新井海人 五十嵐結也 桜雪陽子 大重わたる 折井理子 可知寛子 香月彩里 城 俊彦 末冨真由 田川景一 竹廣隼人 知念紗耶 手代木花野 中上綾女 花島 令 松之木天辺 水野栄治 武者真由 保野優奈 八尋雪綺 YAMATO 山野 光
3/2(水)~3/29(火)東京・帝国劇場
4/13(水)~4/24(日)大阪・梅田芸術劇場メインホール
5/1(日)~5/28(土)福岡・博多座
6/22(水)~7/4(月)愛知・御園座
インターネット配信
配信開始日(U-NEXT) :2022年11月16日
配信終了日:12月18日
日本女性の死はなにを解放するのか
ノイマルクト劇場 & 市原佐都子/Q『Madama Butterfly』
柏木純子
撮影:麥生田兵吾(umiak) (この項すべて)
市原佐都子の『Madama Butterfly』i が関西2拠点で上演された。私が訪れたのはロームシアター京都での日本初演。木曜日にもかかわらずほとんどの席が埋まり、東京を中心に活動する演劇人も複数見かけた。『バッコスの信女』で冒頭から「マスターベーション」や「人工授精」、「ハプニングバー」を話題にしたり、マヨネーズの容器を握って白い液体をぶちまけるなどしながら、性をダイレクトに表現する市原が、ジャポニスムの結晶ともいえるオペラ『蝶々夫人』にどのように切り込むのか。心待ちにしていた観客は私だけではなかったということが、初日の賑わいから伝わってきた。
劇場に足を運ぶ人の中に蝶々さんを知らない人はいないと思うが、どうだろう。私は、メトロポリタンオペラの『蝶々夫人』に衝撃を受けてジャポニスム研究を始めた人間だ。白人が演じる日本人に嫌悪を抱いたと同時に、自分自身が蝶々さんを演じることになったとすれば、どのようなアプローチで役づくりをするべきなのだろうと悩んだ。私がすでに持っている日本人的な要素は何か、持っていない要素は何かと、自分と蝶々さんを比較し、解体し、再構築してきた。蝶々さんのことは、自分のことのように知っている。しかし、そうでない人もいるかもしれない。念のため概要を共有しておきたい。
ジャコモ・プッチーニが作曲したオペラ『蝶々夫人』は、1904年にミラノ、スカラ座で初演されて以降、こんにちにいたるまで日本を“代表する”物語として世界中で上演されてきた。19世紀後半、万国博覧会を中心に日本文化が欧米の人々を虜にし、ジャポニスムと呼ばれる文化活動が起こった。その中で、日本人女性といえば“芸者”というイメージが定着していったii。というのも、当時、渡航を許された日本人女性は芸者くらいしかいなかったからだ。彼女たちは60−70年代にかけて「日本人女性の生活」と題された展示物として人目に晒され、次第に茶屋の給仕をしたり、踊りを披露したりするようになる。80年代には、日本へ渡った西洋人たちが接待されるうちに知りあった芸者を日記に記すなどして、彼女たちの生活の実態を広めていった。そして1900年にはマダム・サダヤッコという名前が欧米に知れ渡る。日本初の女優といわれる川上貞奴のことだ。夫である川上音二郎の一座と共に、歌舞伎や能の抜粋・翻案を上演して一世を風靡し、演技術や日常生活など女優としてのパーソナリティにも注目が集まった。約半世紀かけて“芸者”が展示物から人として扱われるようになる間に、『芸者』(1896)や『イリス』(1898)など数十もの日本の女性を主人公にした作品が生み出されたが、プッチーニの旋律もあいまってオペラ『蝶々夫人』だけがジャポニスムの舞台作品として唯一無二の地位を築いた。
『蝶々夫人』がオペラファンだけでなく、世界的に広く知られるのは、物語に様々な要素を含んでいるからだろう。特に日本人の死に西洋人が直接関わっているという構造は、観客に大きな影響を与えてきた。
i 本作は市原佐都子/Qとノイマルクト劇場(スイス)の共作で、2021年9月にチューリッヒで初演した後、ノイマルクト劇場で上演、オーストリアやドイツの演劇祭などに参加している。日本では2022年2月にロームシアターで披露されることが決まっていたが、渡航条件などにより延期。豊岡で朗読会が開催されていたようだが、この朗読会には参加していない。新型コロナウイルスの感染状況が日々変動する中、上演が叶うかどうかは不透明だったが、9月15日〜17日にロームシアター京都で、9月22日〜24日に城崎国際アートセンターで鑑賞の機会が得られることになった。
ii 参考: 馬渕明子『ジャポニスム−幻想の日本』ブリュッケ(1997)、寺本敬子『パリ万国博覧会とジャポニスムの誕生』思文閣出版(2017)、他。
舞台は日清戦争が終わる1895年ごろの長崎。芸者であった蝶々さんは、アメリカ海軍士官ピンカートンと結婚する。実のところ、その結婚は彼にとって一時的なものだったが、蝶々さんは本当に夫婦となったと信じている。幕が変わり、結婚から3年後。ピンカートンはすでに任期が終わりアメリカへ帰っている。その間、蝶々さんは子供を産み、彼の帰りを待ち続けている。そうとは知らずピンカートンは自国で妻を迎え、共に長崎へ来る。蝶々さんはピンカートンの帰国を喜ぶが、妻の存在を知り自害する。
ポストコロニアリズムへの期待、オリエンタリズムへの批判とともに、『蝶々夫人』への注目は高まり、再解釈・再構築が積極的に行われた。西洋人男性が抱くアジア人女性に対するイメージがいかに幻想にすぎないかを描いた『M.Butterfly』(1988)や、ベトナム戦争における米兵の現地妻を蝶々さんに重ねた『ミス・サイゴン』(1989)がその代表だ。これらは偶然にも、今年、日本で上演されたので、目にした人もいるのではないだろうか。こうしてオペラ『蝶々夫人』の解釈の輪はますます広がり、音楽や演劇のみならず、比較文学、オリエンタリズム、ジェンダー批評など社会学的な視点からも議論が投げかけられた。また、こうした議論がオペラの上演に還元され、アジア系アーティストの起用や、新演出の意図を明示するなどして摩擦の解消が試みられてきた。
初演から120年ほどたった今、『蝶々夫人』が抱える問題は、もう十分に共有されていると私は認識していた。だからこそ、今回、市原佐都子がこのオペラを選んだことに驚き、また彼女が寄せたコメントの内容にも驚いた。
「蝶々さんは、はじめて会った時から、私をイラつかせました。それは彼女が遅れているとか馬鹿だとか、日本人は/日本はこんなじゃない、とかツッコミどころ満載でそんな風にいうことも簡単かもしれませんが、そうではなくて、私は彼女だ、状況はなにも変わっていない、と思わせたからです。」iii
感激した。たしかにこれまでの翻案は、『蝶々夫人』における西洋/東洋、男性/女性、搾取する側/される側の二項対立において、ピンカートンの非を強調することにより観客に反省を促してきたにすぎない。蝶々さんは相変わらず囚われている。日本の女性は純粋さ、従順さ、深い母性愛といったイメージを押し付けられたままだ。
私も蝶々さんです!と意気揚々に、客席に着く。
でも甘かった。作品は私の救いにはなってくれなかった。
ガイジンハンター
劇場へ入ると、CGで描かれた巨大なアジア系女性の顔と向き合うことになる。目や口がぎこちなく動いて、きみが悪く、鑑賞できるようなクオリティでもない。パンフレットや折り込みチラシに目をやって時間を潰していると、アリア「ある晴れた日に」がかかる。上演が始まるのかと再びその顔へ目をやるが、今度は顔全体が歪み、表情が崩れ、不気味さが一層際立つ。永遠の愛を貫こうとする蝶々さんの忠誠心が歌われるこのアリアの音楽的な美しさだけが取り残されて虚しい。曲がフェードアウトするのを待っていたが、結局、最後まで聞くことになった。
幕が開くと、ばったもののキティとミッキー・ミニーが混在するグラフィックTシャツに短パン、デコだしメガネの怠惰な女が転がっている。蝶々(竹中香子)だ。彼女の脳内のイメージは森として左右のパネルに投影され、もうひとりの自分がこれもまた解像度の低いCGアバターとして登場し、対話を始める。「自分の平たい顔がブサイクでイヤ」、「でも、人は中身が大切」、「ガイジンの目鼻立ちが羨ましい」と顔面のコンプレックスについてうだうだと話をしている。後から登場する金髪で目の青いアバターが改めて「中身が大切」と蝶々を励ますが、納得せず、金髪美女にセーラームーンのコスプレをさせてガイジンへの憧れを増強させる。
蝶々はすぐに他者になりたがる。佐世保に生まれ育った彼女は、6歳の時に大浦天主堂でマリア像を目にし、「マリア様のように美しくなりたい」という願望を抱く。聖母マリアが蝶々のガイジン讃美のきっかけをつくった。一方で、彼女はなぜか関西人にも憧れ、エセ関西弁を恥ずかしげもなく喋っている。清らかなマリアとガサツで豪快な関西女を混在させて「ええねん、ええねん」と話を進める蝶々は、ザビエルやジョルジュ・ビゴーのアバターを登場させながら、さらに自分をおとしめていく。そして、いつの間にか彼女は、自分自身の改善を諦めて子孫に不憫な思いをさせまいと「ガイジンに精子をもらえばいい」という結論にいたる。
そうと決めた蝶々は、重い腰をあげ「右翼の女」と「左翼の女」を召喚する。「右翼の女」は日本独自のKAWAII文化に基づき、一重まぶたをアイプチで補正し、ピンクのグロスを塗りたくりながら「セックスできますように」と唱え、「左翼の女」はハリウッドが形づくったアジアンビューティを推奨し、切長アイライン、赤リップ、黒髪ロングを売りにする。オタク男子かイケイケ文化人気取りのどちらに照準を定めるかといったところだろうか。ハルの目的は精子なので、マッチングアプリで品定めをする必要もない。セックスに繋げようと思えば、アダルトビデオでも人気の高いロリ系の右翼が有効な気もするが、彼女は蝶々さんのコスプレに合わせ、左翼メイクを選択する。白い着物にウィッグを被り、お岩さんのコスプレと言われてもおかしくないようないでたちで外国人が多く利用するクラブに突撃する。
蝶々は“ガイジンハンター”のステレオタイプにはまり込んでいるが、それがあまりにも非現実的で滑稽だ。なぜ蝶々は生まれ持った肉体のまま可愛くなろうとしないのか。なぜ外国人と交流するために英語を勉強しないのか。なぜ結婚して一緒に子育てしようと思わないのか。なぜ精子だけをもらって「ハーフ」の子供を産むことが満足に繋がると考えるのか。たしかに私も30年生きてきたなかで、「ジェントルマンな外国人と結婚したら可愛い子供を産んで幸せな家庭を築けるんだろうな」と夢見たことはある。でもそれは愚かな妄言であり、生半可な気持ちで国際交流などできないことも認識している。蝶々の言動には苦笑するしかない。
蝶々が脳内の森に住まわせているアバターたちも、あまりに思考の偏りがある。金髪美女はセーラームーンのコスプレを強要される時に「ホワイトウォッシュになっちゃう」と身を捩り、ザビエルは極東の植民地の創始として、また、ジョルジュ・ビゴーは黒い胴着のような着物を着て「日本人なら着物着ろよ」、「洋装の日本人は生意気なお猿さん」と罵るオリエンタリストとして紹介される。ウィキペディアからでさえもう少し詳細で多角的な情報を得られるはずだが、蝶々は一体どのような環境でそのような思想にいたったのか疑問は募るばかりだ。
改めて客席にいた時の自分の感覚を振り返ると、この時点で私はすっかり蝶々さんではなくなっていたように思う。では誰なのか。オペラ『蝶々夫人』でコーラスの芸者たちと共に結婚式に参列する蝶々さんの従姉妹を思い起こす。ピンカートンと蝶々さんは初めこそ愛し合っていたというふうに解釈されがちだが、そうではない。日本に駐在する西洋人に芸者をあてがう斡旋業者のゴローは、蝶々さんの従姉妹にも結婚の話を持って来ていた。しかし従姉妹はピンカートンをよく思わず、離婚すると予想して断っている。単なる現地妻になる可能性が十分にありながらも、自分は特別であると信じ、教会へ行って改宗までした蝶々さんに対して、彼女は結婚式の最中も「私はもっと素敵な人を見つける。きっと離婚する」と冷ややかな言葉を浴びせ続ける。それと同じような眼差しを私は蝶々に向けていた。市原はまず、『蝶々夫人』のヒロインを愚かなガイジンハンターに仕立て直すことによって、蝶々さんに対して無意識のうちに寄せていた良心と共感をぶち壊しにきた。
柏木純子
1993年、兵庫県出身。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程在籍。兵庫県立宝塚北高校演劇科劇表現講師、日本大学歯学部兼任講師。歴史研究(専門:フランス演劇におけるジャポニスム)、演技指導、企画制作、演出、衣装、コミュニケーション教育など舞台芸術分野において幅広く活動している。
iii 引用:上演パンフレット
ステージ インキュベーション キョウト ノイマルクト劇場 & 市原佐都子/
Q 「Madama Butterfly」
2022年9月15日~17日(土)
ロームシアター京都ノースホール
作・演出:市原佐都子
出演:竹中香子、Yan Balistoy、Sascha Ö. Soydan、Brandy Butler(映像のみ)
ドラマトゥルク:Tine Milz
美術・衣装:Stefan Britze
映像:Juan Ferrari
翻訳:オガワアヤ
上演言語
日本語・ドイツ語・英語(日本語字幕あり)
主催:ロームシアター京都(公益財団法人京都市音楽芸術文化振興財団)、京都市、公益社団法人日本芸能実演家団体協議会
製作:ノイマルクト劇場
共同製作:一般社団法人Q、シアターコモンズ、チューリヒ・シアター・スペクタクル
制作協力:城崎国際アートセンター
後援:在日スイス大使館
文化庁 統括団体によるアートキャラバン事業(コロナ禍からの文化芸術活動の再興支援事業)、「JAPAN LIVE YELL project」、ステージ インキュベーション キョウト
幻想のセックス
『蝶々夫人』に描かれるセックスシーン(実際に舞台上で体を重ね合う演出を見たことはないが)は、家族から勘当された蝶々さんをピンカートンが慰めるところから始まる。蝶々さんが涙しながら、婚礼衣装を脱ぎ始めると、ピンカートンは襖を閉めるよう使用人に言い渡す。彼は蝶々さんの帯を解き、抱き寄せながら「君は私のもの」と囁き、蝶々さんは顔を赤らめて恥ずかしいと口にしながらも「ええ、命のある限りずっと」と互いに心の支えとなることを誓う。そしてふたりで夜空を見渡し、「激しい鼓動に君を閉じ込めよう。君は私のもの…君を強く抱きしめよう」とピンカートンが寝床へ誘う。なんと余裕のあるセックスの導入だろう。
19世紀に定着した日本人女性のステレオタイプを引き継ぐのであれば、セックスシーンは日本人女性が西洋人男性に奉仕するロマンチックなものになるはずだ。浮世絵版画に描かれる性交の様子は、日本の性産業がただ性欲を満たすためのものではなく、互いに探求するものだという印象を広げ、芸者と関係を結ぶことへの憧れを増幅させたiv。このイメージは現代の『蝶々夫人』の演出・演技にも引き継がれており、蝶々さんが躊躇いもなくピンカートンへ愛撫を始める場面を何度も目にしたことがある。しかし市原が描くセックスはそうはならない。
外国人が集うクラブで蝶々を待ち構えるのは、アメリカで引きこもり生活を送っていた男(Sascha Ö. Soydan)だ。彼は人生を変えるために日本へやって来た。「ガイジンは日本の女にモテる」、「ヤリまくれる」、そう兄に聞いてALT(外国人指導助手)に登録した。自国で女性と関わりを持つことも困難な男は、アメリカ海軍士官のコスプレをしてクラブにやってくる。近くにある米軍基地にあやかって、日本女性とセックスし、自信をつけようという魂胆だ。
“I want your white liquid !!” 検索すればもっとマシな表現も出てくるだろうに、蝶々はカタコトの英語を捻り出して海軍士官コスの男をセックスに誘う。蝶々は必死にアピールするが、男は他に声をかけてくれる女性もいないので、渋々付き合っているといったところだ。そこへ神父のコスプレをした男(Yan Balistoy)がどこからともなく現れる。あれよあれよと神父にホテルへ誘導され、セックスを開始する。
蝶々に挑発されてか、男は愛撫もなくズボンから白いペニスを突き出し挿入する。ズボンのチャック部分から出されるペニスは、あくまでも布製のフェイクだ。白く太くふにゃふにゃと揺れて、大きいけど痛くはないと評判の白人とのセックスを想起させる。が、ベッドに四つん這いになり、バックから突かれる蝶々は、エクスタシーから漏れ出るものとは思えないほどの叫び声を上げて、気絶する。まるで獣姦だったと男はショックを受ける。
なぜこのような性交が行われることになったのだろうか。このセックスシーンではステレオタイプの衝突が起こっていた。蝶々は、ガイジンハンターとして精液を積極的にしぼりとろうとする欲求がある一方で、蝶々さんのコスプレをすることにより慎ましい日本女性を演じ、受け身になる。男の方はというと、母国での性的な経験の乏しさからあまりスムーズに口説くことはできない。にもかかわらず、海軍士官の制服が彼の気を必要以上に大きくし、支配しなければならないという感覚が煽られる。ふたりは自己矛盾を抱えたままベットインし、性欲を解放する。部屋についた瞬間に男を襲ってしまえばいいものの、慎ましい女を演じ続ける蝶々は、ただ性液を体内に入れるために股を広げる。どのように女を扱っていいものか分からない男は膨らんだペニスをねじ込み腰を振るよりほかない。こうしてなんのエロスも感じさせない性交が展開された。
目的を達成し高揚する蝶々に対し、アメリカから来た男は絶望感で満たされる。「モテる」とは、「ヤリまくれる」とは一体どういう状態を言うのか。日本人女性に奉仕してもらえるという幻想は粉々に打ち砕かれ、八つ当たりするようにALTの仕事に対する愚痴を並べる。「英語をろくに話すこともできない馬鹿」、「CDでも事足りるような発音練習をガイジンに読ませてありがたがっている」、「こんな言い方は使わないと指摘するとざわつく」。彼の指摘は間違いではない。だが、蝶々がろくに英語を話せないことと、空虚なセックスを行ったことがどのように関係しているというのか。ただ、気持ちのいいセックスをしたかったのなら、イラつく相手であっても前戯をすればよかっただけのことなのだが(少なくともピンカートンは蝶々さんに対してそうした)、蝶々に何も与えなかったピンカートンはただ精液と金と気力を搾り取られて帰路に着くことになる。
ステレオタイプからの解放
このように市原によって再構築された蝶々さんとピンカートンは、共に世間知らずのバカものとして私をイラつかせた。が、ここで一時解放される。蝶々、海軍士官、牧師の衣装を脱ぎ捨て、それぞれを演じる役者としての会話が始まるのだ。蝶々を演じるハル、ピンカートンを演じるサマー、牧師を演じるタムタムが、本作の問題点を語る。これまで蝶々は日本語、他の二人は英語で演じていたが、舞台裏ではドイツ語が飛び交う。
この作品について最もストレスを抱えるのは、ピンカートンを演じるサマーだ。トルコ系ドイツ人女性がアメリカ人男性を演じることについて、「肌がオリーブで目の茶色い私を白人と表現していいのか」とか「せめてトルコ系アメリカ人という設定にするべき」ではないかと提案しつつ、ポストコロニアリズムの中で発見された演劇における多文化共生の可能性に議論が及ぶ。タムタムは中東にルーツを持つが、蝶々がハーフの子供を産みたいと願うことがネガティブに描写されることに懐疑的である。ハルは日本人として演出家に共感しつつ、作品の改訂は一筋縄ではいかないのではないかと二人をなだめる。
上演を進めるためにも、彼らは演出家に直接話をすることにする。そうしてオンライン上で登場するのが、アフリカ系のルーツをもつフユコ(Brandy Butler)だ。バーチャル背景にはビビットカラーの富士山と桜を選び、アメリカンイングリッシュで話すフユコに私は大坂なおみを重ねる。フユコは「『蝶々夫人』はあまり好きではないけれど、現状は変わっていない。それを表現したいのだ」と市原の『Madama Butterfly』の創作意図を代弁する。フユコは日本で生まれ育ったのか、それとも日本で生まれ、日本国籍を所有しながらアメリカで育ったのかと想像しながら、彼女の演出意図に耳を傾ける。出自や使用言語で日本人であるかないかを判断するべきではなく、彼女が日本人として問題に思っていることについて真摯に受け止めるべきなのだが、次第に彼女の話す内容が腑に落ちなくなってくる。
特に、アフリカ系の彼女にとって本当に関係があるのか? と疑問に感じたのは、日本人は幼く見えるというエピソードだ。彼女は欧米で仕事をすると幼く見られたり、子供扱いされたりするという。そして、それが嫌だというわけではなく、自ら進んで欧米人が期待するアジア人のイメージに寄せているという話なのだが、アフリカンのフユコの見た目から、幼さは感じられないし、実際、アフリカ系の日本人が他国の人と比べて幼く見られるのだろうかと懐疑的になる。フユコは市原であり、ただButlerに演じさせているだけなのだろうか。そう認識し直せば、今度はハル、サマー、タムタムも誰かの代弁者なのかもしれないという考えが頭をかすめる。ハルは、自分がピンカートンを演じていいものかと心配するサマーに「大丈夫、日本人は何人か区別がつかないから」と言った。確かに、サマーがトルコ系ドイツ人だとしても、それを演じるSoudanが同様にトルコ系なのか、タムタムを演じるBalistoyがアジア系のハーフなのかどうかは検討がつかない。疑念が生まれると、バックステージのリアルな議論のように見せかけたこの劇中劇も、結局のところ多国籍な現場で展開されがちなステレオタイプが垂れ流されているだけなのではないかと感じてしまう。私たちは建設的な議論を重ねられているのだろうか。それすらも疑わしく思えて虚しい。
iv 参考:木々康子『春画と印象派』筑摩書房(2015)、大英博物館「春画展」図録(2015)、他。
自分のために死ねる自由
舞台は再び蝶々の物語に戻る。彼女はアメリカ人とのハーフを産み、その子供もすっかり成長して高校に通っている。今度は蝶々の息子が自身を物語る。
『蝶々夫人』では、息子はピンカートンとその妻ケイトが引き取り育てることになっている。その設定をもとに創作された三枝成彰の『Jr.バタフライ』(1992)で、蝶々さんの息子はアメリカ政府職員として来日し、日米の融和に尽力しようとする。しかし、第二次世界大戦で長崎に原子力爆弾が落とされ、日本人の妻が命を落とす。蝶々さんと同じく、命を絶つことを考えるが、残された息子のために生きることを決心する。悲劇はいつまでも繰り返されるものではないという希望が歌われる。
一方、蝶々に引き取られ、二人暮らしをしている息子は、精神疾患で働くことのできない母を介護するヤングケアラーになっている。母からは「お父さんみたいに立派になって嬉しい」と声をかけられるが、それは白人らしい外見を引き継ぐだけだということを本人が1番理解している。彼は、気になる女の子にワキガを指摘されたことで自分の生まれに対する怒りを爆発させる一方で、父親譲りのペニスの大きさを密かに自慢したいと願っている。彼は彼の外見の利用方法を十分に理解できる年齢になっていた。女の子から、ワキガだと指摘したのは気を引くための嘘だったと告白され、息子は改めて交際に向けたアプローチを始めようとする。しかし今度は、彼女もまた母と同じく、自分のガイジンらしさに惹かれているという事実に直面する。英語が喋れるのかという質問する彼女に対し「一生レイシストとして生きるのだろう」と軽蔑の眼差しを向ける。
帰宅すれば寝てばかりの母がいる。彼女はとうとう生理用ナプキンもつけなくなり、毎月血を垂れ流したまま、その下着を息子に洗わせている。もう、しみが落ちないほどに、何度も垂れ流し、下着を新調してもまた血で汚す。廃人になってしまった母が癇癪を起こしている。ハーフの息子を産むだけではやはり彼女の心は満たされず、白人の顔になりたい、整形をしたいというのだ。整形をして鼻を高くして美しい姿になったら、心も晴れて仕事ができるようになるはずと、息子にせがむ。
息子の苦労も知らず白人への憧れを抱き続ける母に、息子はとうとう「死ねよ」と吐き捨てる。蝶々はどういった思いがあったのか。抵抗することなく、過去を振り返りながら包丁を自分に突き刺す。
「名誉のうちに生きれぬものは、名誉のうちに死せよ」という『蝶々夫人』における死のステレオタイプは、当然、『Madama Butterfly』の蝶々には適用されない。彼女は、作中、人生のうちに名誉を感じることがあるとは思えないような言動を繰り返してきた。ここまで来れば、彼女の死すらも滑稽に思えてくる。彼女の悲劇はなるべくしてなったのだと、見得を切って死んでみせた蝶々に憐れみの眼差しを向ける。
オペラ『蝶々夫人』では、「蝶々さーん」とピンカートンが何度も名を呼ぶなか幕が降りる。彼の叫びを聞きながら、誰が、あるいは何が蝶々さんを死に追いやったのかと反省が促される。では、『Madama Butterfly』において、蝶々の死から私たちは何を反省するべきなのだろうか。赤い紙吹雪の中に横たわる蝶々を横目に、私はこの観劇体験のまとめを始めた。
が、突然、蝶々がスクリーンに投影される。「お母さん、マリア様に昇格してん」。昇天した蝶々は満面の笑みで語る。相変わらず、どんな思考でそのような結論にいたり、納得したのか理解が追いつかない。彼女は死んだだけで、姿形は生きていた時のままだ。一体、なにをもってしてマリアになったというのか。そして、蝶々は息子にはある仕事を薦める。日本人のためのキリスト教式結婚式の牧師だ。カタコトの日本語で愛を誓わせる仕事。きっと蝶々はこの見せかけの教会のマリアになったつもりなのだろう。
エンタメが植え付ける生まれ持った身体への劣等感、小・中・高校での粗末な国際文化教育、過酷な単身での子育て環境などが日本女性を追い詰めている。そうした社会的な問題をこの作品から受け取ろうとしていたが、昇天した彼女のあっけらかんとした態度から浮かんだのは「自業自得」という言葉だ。『Madama Butterfly』の自死から原作を振り返った時、蝶々さんに同じ言葉を投げかけることができるだろうか。『蝶々夫人』における蝶々さんの自死は、武士道精神に基づく日本人女性の純粋さ、従順さ、深い母性愛から成ると解釈されてきた。しかし、今となっては、いつまでも武士道精神にとらわれ、西洋人男性から本当に愛してもらえると信じた彼女の愚かさを受け入れることができる。幕開きからあらゆるステレオタイプを提示してきた本作だが、最後、蝶々が自分のためだけに命を落とすことによって、蝶々はステレオタイプのしがらみから解放される。
私は彼女か?
しかしながら、市原佐都子の『Madama Butterfly』は、見事に120年にわたり構築されてきたステレオタイプの事例を一つの作品としてまとめ上げた。そこには西洋から日本へだけでなく、日本から西洋への眼差しも表現されている。また、中盤の舞台裏での会話では、『蝶々夫人』の物語の構造を度外視して、新しい価値観を提示しているように思えるが、その議論もまたステレオタイプ化されてしまっているように感じられる。市原は足踏みしている議論を力強く足踏みさせることによって、観客を混乱の渦に巻き込んだ。『蝶々夫人』が市原に「状況はなにも変わっていない」と感じさせたように、『Madama Butterfly』は変えることのできない現実を突きつけて観客の思考を停滞させる。
一方で、私がオペラ『蝶々夫人』の従姉妹のような視点で本作を受容したように、蝶々が全ての日本人女性の思想を包括できるわけではないということも表現されている。蝶々のダメ女ぶりは、風貌や発言のみならず、脳内のアバターを介して私をイラつかせた。市原は、観客に主人公への同情や日本社会への反省の隙を与えず、作中の諸問題は議論するに値しないとまで思わせる。目の前で繰り広げられる物語を他人ごとにさせてしまう。『蝶々夫人』の物語や人物像にステレオタイプを見出すことはできるだろう。しかし、思考にまで共感を寄せることは困難だということを、本作品は提示している。
私は改めて、蝶々さんが創作された当時に思いを馳せる。今更だが、この作品のタイトルが「マダム」ではなく「マダマ」・バタフライ(イタリア語でのオペラ版の原題)となっていることにお気づきだろうか。『蝶々夫人』に描かれる明治維新、廃仏毀釈、天皇崇拝、家父長制、武士道、女性の社会進出、母性愛は単に芸者への憧れを募らせるだけで作品化できるようなものではない。この作品の誕生には、仏、米、伊、英、日の文化・知識人が関わっている。初演の頃より頻繁に改訂が繰り返され、日本人/日本をいかに表現すべきか議論が重ねられた。が、いつの間にか『蝶々夫人』はプッチーニだけのものになり、現代人はプッチーニが表現しようとした日本像を探そうとする(彼は物語の構成にほとんど関わっていないにもかかわらず)。不備があればプッチーニに責任を押し付ける。考えてみればおかしな話だ。私たちはこの物語について特定の誰かに責任を問うことができない。
オペラ『蝶々夫人』の初演から1世紀を越えた今、議論は出尽くしている。しかもその観点はあまりにも多種多様だ。私たちはもう、『蝶々夫人』を「日本人のステレオタイプを表現した作品」として語らなくてよいのではないか。
33
通巻第33号 2023年1月31日公開
国際演劇評論家協会日本センター
関西支部
発行人:関西支部長 瀬戸宏
編集人:岡田蕗子、上念省三、須川渡、竹田真理