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須川 渡 2年ぶりによみがえる「声」
北九州芸術劇場クリエイション・シリーズ『まつわる紐、ほどけば風』


瀧尻浩士 魔窟潜入―リアルとバーチャルの間で揺れ動く劇場空間
ヨーロッパ企画第40回公演『九十九龍城』


竹田真理 宙吊りにされた日常と思索のドキュメント
Monochrome Circus『京都自粛生活日記 Don't Worry!!!』


上念省三 劇場漫筆~2022年3~5月の7本 TheTimelessLetter『ハルナに浮かぶ月』 『さなぎダンス#13』 斉藤綾子『マーガレット2』 宝塚歌劇団雪組『夢介千両みやげ/Sensational!』 朝海ひかる他『サロメ奇譚』 兵庫県立ピッコロ劇団『月光のつゝしみ』 Etsuko Yamamotoアトリエ公演『Livre d’Image=図鑑』

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北九州芸術劇場クリエイション・シリーズ『まつわる紐、ほどけば風』
http://q-geki.jp/events/2022/matsuwaru/

2022年2月17日(木)〜20日(日)

作・演出:岩崎正裕

​出演:内山ナオミ(飛ぶ劇場)、江﨑萌葉、大野朱美、木下海聖(有門正太郎プレゼンツ)、桜井玲奈
寺田剛史(飛ぶ劇場)、飛世早哉香(in the Box、Org of A)、町田名海子(創造集団ちいさなクルミーノ、ゲキゲキ/劇団「劇団」)、宮村耳々、村上差斗志(FOURTEEN PLUS 14⁺)
岸部孝子(劇団太陽族)、三田村啓示

企画・製作/北九州芸術劇場

主催/(公財)北九州市芸術文化振興財団
共催/北九州市
助成/文化庁文化芸術振興費補助金(劇場・音楽堂等機能強化推進事業)|独立行政法人日本芸術文化振興会

杉田久女(すぎた・ひさじょ1890― 1946)

俳人。鹿児島県生まれ。本名赤堀久子。幼時沖縄、台湾に過ごし、東京女高師附属お茶の水高女を卒業、1909年(明治42)画家杉田宇内と結婚、夫が福岡県小倉(こくら)中学の図画教師となったため、小倉に移り住む。初め小説家を志望したが、断念して『ホトトギス』に投句、激しい個性をもった天才的な作風が注目をひいた。32年(昭和7)俳誌『花衣』を創刊したが5号で廃刊、才気と勝気の性格が災いして36年『ホトトギス』同人から除名され、不遇のうちに没。没後『杉田久女句集』(1952)、『久女文集』(1967)などが刊行された。(コトバンクより)

■ 須川渡(すがわ・わたる) 福岡女学院大学准教授/演劇研究。2018年より福岡在住。戦後日本の地域演劇について調査を続けている。

須川 渡 
2年ぶりによみがえる「声」
北九州芸術劇場クリエイション・シリーズ『まつわる紐、ほどけば風』

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撮影:重松美佐

​提供:(公財)北九州市芸術文化振興財団 北九州芸術劇場

 北九州芸術劇場は2003年の開館以来、北九州発の作品創りを行っている。「飛ぶ劇場」の泊篤志や、福岡出身の東賢司、小倉のシナリオライター鵜飼秋子の創作劇、また松井周や柴幸男、藤田貴大、桑原裕子など、近年は招聘するアーティストも様々だが、いずれも北九州にちなんだ作品を発表し、地域劇場としての存在を示してきた。

 

 今回の『まつわる紐、ほどけば風』もそのような創造事業のひとつである。開館15年目の節目を迎えた2018年、劇団太陽族の岩崎正裕と北九州芸術劇場が2年間にわたってタッグを組み、北九州で地域の人々と交流を重ねた1年目を経て、2年目に創作劇を発表するという取り組みだ。

 

 本公演はオーディション参加者の中から選ばれた10名と関西から2名のゲストキャストを迎え、北九州芸術劇場と兵庫・伊丹AI-HALLの二か所で上演される予定だった。しかし、新型コロナウイルスの感染拡大を受け、2020年2月27日の北九州での初日公演をのぞいて、全公演日程が中止となった。

 

 今回の再演は、キャストが再集合し、2年越しの上演となる。舞台となる場所は小倉界隈、地元の観客にとっては身近な場所である。地域を題材にした作品は、北九州芸術劇場を訪れた観客たちに何をもたらすのだろうか。

北九州の「声」を紡ぐ

 

 2年の隔たりは、冒頭場面に壁にかけられたカレンダーによって示される。2022年2月から遡り、カレンダーは2020年2月に。おそらく新型コロナウイルスが流行する少し前という設定で展開される。

 

 物語は、ボルダリングジムで出会った久代(内山ナオミ)、愛梨(飛世早哉香)、恵(大野朱美)と、久代の姪であるあかね(町田名海子)を中心とした大学生グループが主に描かれる。 いわゆる群像劇だが、北九州で生涯を送った俳人・杉田久女であろう女性(宮村耳々)がそれを俯瞰して眺めている。久女は、皿倉山から流れる板櫃川が海に注ぐほんの手前、極楽橋のたもとに住んでいたと言う。モデルである杉田久女は必ずしもめぐまれた生涯を送れなかった。「点在する今は、私の今の地続きでしょうか」という台詞で示される通り、現代においても女性への言われなき偏見や差別 が残っているという視点で、物語は展開する。

 

 久女と思われる女性がところどころで狂言回しを行なう場面はあるが、基本的にこの作品は現代に生きる「私たち」のドラマとして描かれる。例えば、愛梨は小劇場で活動する舞台俳優で、枝光町アイアンシアターで今度公演を行うという。演じている飛世自身は北海道で活動しているが、飛世のパーソナリティとも重なる設定だ。愛梨の夫・林太郎(寺田剛史)は医師で、彼女の演劇活動にはまったく関心を持っていない。愛梨の演劇に対する夫の無理解は、生前の久女が俳句を夫に理解してもらえなかったこととも重なり合う。

 

 それぞれの夫婦やカップルに共通するのは、男性の無理解である。恵は3年、不妊治療を行っているが、夫・利明(村上差斗志)は彼女の不安に寄り添えない。同様に、大学生グループの間でもすれ違いが生じる。北九州市内の大学に通う七海(江﨑萌葉)は軽音部の先輩であるあかねに惹かれているが、あかねの交際相手である蓮(木下海聖)は快く思っていない。蓮は七海への嫉妬を抱き、同性愛嫌悪を募らせていく。

 

 劇場界隈の馴染みがある場所が舞台となり、北九州の言葉で語られる。「小倉駅やチャチャの間くらい」にあるマンションや、「夜宮公園まで散歩も行き放題」の一軒家は、実際にこの地域に住む観客たちにとってリアリティのある場所であり、彼ら彼女らのおかれた状況が自分たちにとっても身近な問題であると感じるだろう。

 

 劇中では、北九州市が2019年7月から始めた「北九州市パートナーシップ宣誓制度」についても言及される。性的マイノリティのカップルを公的に認めるこの制度は、市が発行した受領証を持てば、家族以外のパートナーであっても、医師の説明を聞いたり、部屋を借りたりすることができる。育子(岸部孝子)の「この街も、もっともっと住みやすくなればいい」という台詞は、地域劇場発の作品だからこそ生まれた実感のこもったメッセージともいえる。

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撮影:重松美佐

​提供:(公財)北九州芸術文化振興財団 北九州芸術劇場

生きづらさの和らげ方


 岩崎いわく「現代女性の生き方」に焦点を当てたこの作品は、久女の時代から変わらない女性たちの生きづらさを描き、また解決の糸口を見出そうとしている。

 

 各グループの末路は対比的に描かれる。恵と利明のわだかまりは、不妊治療を一度あきらめて二人だけの生活を見つめ直すことで解決の兆しを見せる。利明が「俺が声を荒げんやったら、会話がスムーズに流れる」ことに気づき、自らの男性性を自覚化したこともまた和解の一因となっている。二人は新婚旅行でスコットランドに行った5年前を思い出し、再びあの頃に戻ろうとする。

 

 一方、林太郎と愛梨はそんな二人とは対照的だ。林太郎は浮気がばれ、愛梨との溝はますます深くなる。医師の林太郎にとって伴侶はステータスであり、愛梨の励む演劇の舞台に自分の思い描いている彼女はいない。愛梨はイプセンの『人形の家』に登場するノラと自分を重ねる。ノラについては久女もかつて「足袋つぐやノラともならず教師妻」という句を残している。久女は、女性の主体性の象徴であるノラとは違い、家にとどまることを選んだ。「昔は許されんやったんかも知れんけど、今は許されるやろ」と言って家を出る愛梨は、100年前と違って女性が自身の生き方を選べる時代になったと捉えることもできる。

 

 しかし、ノラの存在がすでに大正時代に流行したことを考えると、この愛梨の選択を現代女性の代表と捉えることは難しい。この作品で惜しむらくは、いずれの場面もスケッチにとどまり、課題を解決するような新しい関係性を見出しがたかった点にある。

 

 たとえば、あかねと七海の交際を疎ましく思う蓮が、彼女たちに対して「生産性ゼロ」と感情を露わにする場面がある。政治家による性差別発言をもとにした台詞であり、蓮の同性愛嫌悪が顕著となる場面だが、愛梨を探しにやってきた林太郎に遮られ、うやむやとなる。蓮とあかねは恋人から友達へと戻るが、ご都合主義的に三人が和解したことで、子細に描くべき対話のプロセスが零れ落ちてしまったのは残念だった。

 

 この作品のタイトル『まつわる紐、ほどけば風』は「花衣脱ぐやまつわる紐さまざま」という久女の句からとられている。タイトルが示すとおり、登場人物たちは社会の数々のしがらみを一度ほどこうと試みる。自らの所属するコミュニティを問い直し、多くの「別れ」が描かれる中、はじめから個であった久代(内山ナオミ)と友也(三田村啓示)については 「出会い」が起点となっている。関西から北九州に移り住んだ友也は、久代が勤めている店で彼女に出会い、好意を抱く。ほとんど接点のない二人だったが、人間関係がうまくいかず、互いに集団のなかで生きられない共通項を見出し、惹かれ合う。電車について熱弁する友也の人物造形がややコミックリリーフ過ぎるきらいはあったが、しがらみにとらわれない生き方としては、ひとつの方法を示していたように思う。

 

 最後に女性たちは壁をボルダリングに見立てて上る。久女による「てっぺんかけたか」という言葉は「谺して山ほととぎすほしいまゝ」という彼女の句に倣ったものだろう。これは社会に抑圧されていた女性たちに向けてのエールと捉えられるが、このラストシーンはせっかくほどいた紐を再び「女性」という男性側の作ったしがらみで強化してしまう危惧も覚えた。エールを送る側もまた内省し続けなければならない。

 

 ドラマとしては物足りなさも感じる場面もあったが、新型コロナによって一度は葬り去られようとした彼女たちの「声」がよみがえったのは意義深いことだ。この取り組みの評価すべき点は、丹念に北九州を取材して創作したプロセスそのものにある。それは2012年から始められた、地域に暮らしてきた人々のエピソードを劇化する『Re:北九州の記憶』などの作品にも表れている。ともすれば、かき消されてしまう「声」に耳を傾ける。上演の評価だけではなく、むしろここから様々な対話を始めるべきだと感じられた公演だった。

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http://www.europe-kikaku.com/e40/

 

2022/2/19(土) 所見
梅田芸術劇場 シアター・ドラマシティ

CAST&STAFF
作・演出=上田誠

出演=石田剛太 酒井善史 角田貴志 諏訪雅 土佐和成 中川晴樹 永野宗典 西村直子 藤谷理子 本多力 /金丸慎太郎 早織


■瀧尻浩士(たきじり・ひろし) 演劇研究。宝塚、文楽、上方喜劇、上方落語に上方漫才、と関西ゆかりの芸能に魅せられ続けてはや半世紀。NO LAUGH, NO LIFE.

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瀧尻浩士 
魔窟潜入―リアルとバーチャルの間で揺れ動く劇場空間
ヨーロッパ企画第40回公演『九十九龍城』

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撮影:清水俊洋

 香港の九龍城といえば、一度入り込めば二度と出てこられない怪しいスラム街としてのイメージを映画やドラマで、さんざんインプットされてきた。様々な都市伝説的な恐ろしい噂話を聞かされながらも、怖いもの見たさに、香港へ行ったらその入口まででもいいから行ってみたい!と思ったのは私だけではあるまい。だがその場所も1990年代はじめに取り壊され、きれいな公園に様変わりしてしまった。華やかな都市の陰に息づいていた怪しい空間は、時代と共に白日の下に晒され、クリーンな街の一部に取り込まれ、そして消滅していった。本作が語るところの、そんな「魔窟」のような無法地帯は、もはやリアリティーを失ったファンタジー世界にしか存在しないのかもしれない。そして物語は、その怪しい「魔窟」の空間を覗き見ることから始まる。


 2年ぶりのヨーロッパ企画の本公演は、九龍城の11倍も怪しい「九十九龍城」が舞台だ。舞台前面の紗幕スクリーンに、「100万ドルの夜景」と言われる香港のビクトリア・ハーバーの夜景が映し出される。そこに男二人の会話が被さる。彼らの姿は見えない。声だけが客席頭上から聞こえてくる。マウスのクリック音がするたびに、香港の夜景から、ビル立ち並ぶ街中へ、そして九十九龍城の中へ中へと、紗幕に投影された画面がズームアップされていく。会話する男たちは、ある事件の犯人が逃げこんだと思われる九十九龍城を捜査している刑事で、コンピューターを使って、九十九龍城の不審な住人たちを監視しているらしい。映像が映ったスクリーンは、どうやら彼らのコンピューターのモニター画面のようなのだ。さらには壁を透視できる警察の最新デジタル技術とやらで、拡大した九十九龍城のとあるアパートの部屋の中まで丸見えになっていく。

 

 紗幕があがると、舞台にはモニター上で透視されたアパートの部屋がそのまま設えてある。舞台上にあるのは物理的に実在する装置だが、劇中ではあくまでも刑事たちがリモートで監視しているPCモニター上のバーチャル画面として機能している。劇場は、巨大なパソコン画面としてのバーチャル空間(=舞台)とそれをモニタリングする刑事たちがいると想定されているリアル空間(=観客席)から構成される。「九十九龍城」という魔窟の住人たちの生活を、相手に知られずして一方的に監視するという構図は、そのまま第四の壁側から舞台上の他人の人生を見るという演劇のそれに重なる。

 

 劇の前半、舞台上のいくつかの部屋の住人たちのそれぞれの日常がモニタリングされる。魔窟と呼ばれるスラムにおいても、それぞれの生の営み、人生模様があるのだ。舞台上(すなわちモニター画面の中)で、繰り広げられる住人たちの生活を遠くから覗き見し、会話を盗み聞きしながら、二人の刑事の会話は漫才のようなテンポで、いちいち彼らの行動にツッコミを入れながら進んでいく。観客はさながら、魔窟探検の番組を見ながら、刑事によるオーディオコメンタリーを楽しむような気分にさせられる。



 

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撮影:清水俊洋

 ところが中盤あたりから、この劇場空間に変化が起こる。二人の刑事のうち、若いほうが、モニターごしの捜査に居ても立っても居られず、一人で「九十九龍城」へ潜入捜査に行ってしまうのだ。これにより、一方的に見ているだけの観客席側にいた人物(若い刑事)が、舞台上の世界(=モニター内の世界)に入り込むことで空間的構図に変位が起こる。

 

 「お前が魔窟を覗く時、魔窟もお前を覗いている」と先輩刑事が若い刑事に忠告するように、潜入した若い刑事と、その彼をモニター上で見守る先輩刑事のどちらも、もはや安全地帯から一方的にながめているというわけにはいかなくなる。そこにドラマとしてのサスペンスが生まれるということは、同じドラマの構図を持つアルフレッド・ヒッチコックの『裏窓』(1954)やD・J・カルーソの『ディスタービア』(2007)の例を挙げるまでもないだろう。それは、二人の刑事だけに言えることではなく、モニターとしての舞台を一緒に笑って「覗いて」いた我々観客にも当てはまる。観客側にいた二人の刑事のポジションが、画面の内と外に分断されることで、観客の心情も、刑事の潜入と共に舞台上でドラマが進行する「魔窟」の中と外を往復し始める。映画かテレビを見るような一方的な視聴感覚から、まさに「お前が『舞台』を覗く時、『舞台』もお前を覗いている」といったような演劇的体験感覚へと次第に観客のポジショニングが揺らいでいく。

 

 そしてさらには、画面(=舞台)の外に残された先輩刑事も後を追って、「魔窟」へ潜入する。その二人の刑事が舞台上に登場した瞬間、それまでモニター上のバーチャルであった「九十九龍城」が、一気に観客ごと取り込んだリアルな空間となる。舞台上の住人たちの日常を客席というドラマの外側から俯瞰して視聴していた観客は、二人の刑事の潜入行為に引きずられて、「魔窟」世界の物語というドラマの内側に入り込んでしまうことになるのだ。それによって、前半の、コンピューターという境界によって画面の内(バーチャル空間)と外(リアル空間)とに明確に二分された空間関係が崩れ、バーチャルであった舞台が、それをモニターしていた人物二人ともその世界に入り込むことで、ドラマの内なるリアル空間として劇場全体を占拠しはじめる。そして観客もドラマの構造内の世界で「九十九龍城」のリアルを一緒に体験することになる。

 

 終盤には、その世界をさらに混乱させる急展開が用意され、劇空間は再度あらたな拡がりをもつことになる。突然「魔窟」に様々な非現実的な異変が起こり始める。刑事の銃は、ブロックで出来たようなデフォルメされた四角い形になり、また住人のひとりである肉屋が切った肉がカクカクした「解像度の荒い」肉になったり、ある人物の動きが超スローになったりする。リアルな空間になったと思われた舞台上の世界は、実は「仮想現実」で、プログラミングされた世界であるばかりでなく、地球、宇宙全体がそもそもバーチャルリアリティであることが、登場人物の一人から告げられる。8bitゲーム風な「モザイクの銃」も「カクカクした肉」の異変も、データが重くなって人物の動きがスローモーションになることも、すべてはプログラムのバグによるものなのだ。「九十九龍城」は、そうしたプログラムのバクが頻繁に起きる場所らしい。自立した意識を持って行動していたと思っていた登場人物たち自身も、実はゲームの中の「モブキャラ」であることを知らされる。この舞台上の「仮想世界」である「九十九龍城」の外側にはさらなる外層世界、その上にはさらに地球、宇宙と多層的な空間が拡がっており、それらは「運営」によって支配されているという。コンピューターシステムによって、そのバーチャル世界を支配し、「運営」する者とは一体誰なのか? 劇中それが明かされることはない。だがもし「九十九龍城」をゲーム世界の一部とするならば、それはこのメタバースにモブキャラを配して、その世界を冒険するゲームプレイヤーかもしれないし、あるいはそのゲームサービス自体を提供する会社組織かもしれない。さらには、「九十九龍城」を、劇設定を超えて現実の「九龍城」に重ねるならば、その世界を支配する「運営」は、今の香港を自分たちの枠組みで統治しようとする権力機構にも見えてくる。

 

 このように劇が展開するにつれて、舞台がPCモニター内のバーチャル空間からリアル空間に移行したと思いきや、そのリアルだと思われていた世界が、どんでん返しで一気に再仮想化される展開となる。もちろん実際の舞台装置そのものは、はじめから全く変わっていない。ただドラマにおける空間関係の変化によって、その世界の見方が変わっていくのである。

 

 劇中では、主として「魔窟」と呼ばれる特殊な場所としての「九十九龍城」に生きる人々の日常的な「生」が描かれる。だが前述の通り、彼らの「生」は実はバーチャルなものであり、彼らの日常世界はその上部世界に支配されていることがわかる。システムのバグによって生まれたこの場所に息づく「生」は、世界を制御するシステムのアップデートでどうなるのか。おそらくそのアップデートにより、世界は一旦リセットされ、それまでの世界とモブキャラは消滅し、「死」を迎えるだろう。そして再起動されたのち、おそらくまた新たなバグが発生し、そして同じような世界が生まれ、再びモブキャラとしての人間たちが同じような「生」を繰り返し営むにちがいない。舞台と観客の関係、特定の場所における普遍的な生の営みの繰り返し。どこかソーントン・ワイルダーの『わが町』(1938年初演)を思い起こさせはしまいか。この劇の、香港「九十九龍城」は、『わが町』のニューハンプシャー州グローヴァーズ・コーナーズであり、モブキャラとしてそこに住む人間の繰り返される「生」は仮想空間と観客の内面において、普遍的な意味を持ち始める。

 

 仮想通貨に、仮想ショッピングモール。家から出ることなく買い物を楽しむことができるし、電車の中でもRPGゲームの世界に遊ぶことができる。SNSの普及で、顔の見えないコミュニケーションも可能になった。現代のネット社会の中では、普段の日常の中にこうしたバーチャルな空間がごく自然に息づいている。一体何がリアルで、何がバーチャルなのか不確かなまま、その曖昧な境界線上を私たちはなんの疑いもなく行ったり来たりして毎日を過ごしている。覗き見していた怪しい彼の地での出来事、この「九十九龍城」でのドラマは、実は観客それぞれの「わが町=Our Town」の物語であり、登場するモブはVR(バーチャルリアリティ)空間と常に隣接する現代に生きている我々自身のアバターなのかもしれない。

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2月11~13日

THEATRE E9 KYOTO

「3Layers」より

『京都自粛生活日記 Don’t Worry!!!』

演出・脚本・振付・出演 :坂本公成+森裕子

音響:山中透

翻訳:山田知世

字幕:井村奈美

竹田真理 宙吊りにされた日常と思索のドキュメント
Monochrome Circus『京都自粛生活日記 Don't Worry!!!』

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Photo:Saji Kim

■竹田真理(たけだ・まり) ダンス批評。関西を拠点にコンテンポラリーダンスを中心とした批評活動を行っている。

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『HAIGAFURU/Ash is falling』2015、京都芸術センター

 コロナ禍に伴う緊急事態宣言により自粛生活を余儀なくされたダンサーが、自らの日々を日記に綴り、舞台に起こした作品である。演出・構成・振付、及び出演はダンスカンパニーMonochrome Circusの坂本公成と森裕子。いわゆるダンス作品のイメージとは大きく異なり、日記の記述をそのまま台詞とする森の発話が中心だ。坂本は発話に寄り添い、進行を下支えする。コンタクトインプロビゼーションをはじめポストモダンダンス以降のダンスの技法を習得・実践してきたカンパニーの上演史の中で、ここまで台詞を主体にした作品は極めて異例である。しかし舞台で言葉を発する森裕子のこれまで見せたことのない魅力にすっかり引き込まれてしまった。初演は2020年11月、新型コロナウィルス感染症拡大の一年目で、客数を10人に絞ったイレギュラーな形での上演だった。それがコロナ禍も2年余りを数える本年2月、「3 Layers」と題したトリプルビル公演のプログラムの一つに組み込まれ、再演された。公演としての「3 Layers」は「Kyoto-Osaka-Toulouse」(京都―大阪―トゥールーズ)と副題され、移動と集合を封じられたダンサーたちが国境や距離を隔て、いかに創作を進めるかをテーマとしている。3つの都市名は3本それぞれの作品に携わるダンサーの拠点に由来する。地理上の接続に加え、トリプルビルは、異なる時間の接続も意図している。カンパニーのレパートリーからの一作は過去の時間の堆積を、国際共同製作の一作は未来の上演へ向けた運びを示し、この時相の重なりの中で本作『京都自粛生活日記 Don't Worry!!!』は、停滞し、どこヘも流れていかない現在を印している。移動を封じられた身体の一点から複数の場所と時間をつなぐ編み目構造に、宙吊りになった現在が浮かび上がる。

 日記は2020年4月7日、緊急事態宣言発出の日に始まり、解除が間近の5月18日(実際に解除されたのは5月25日)で終わる。途中、二人が関わるワークショップフェスティバルの期間を除き、実質26日分の日記である。だが自宅リビングのミニマムな空間で営まれる日常の記述は、世界史的なパンデミックの下でアーティストが経験した日々を濃密に伝える。初日はいかにも日記らしく、税金の振り込みや買い物といった生活上の具体的な行動が記される。だが後に続く「今日から京都芸術センターが閉鎖されて」のフレーズは、関西の舞台芸術周りの者の耳に事態の尋常ならざる様子を伝える言葉として届く。別の日、公園で遊ぶ子供の無邪気な姿を見かける一方、歯医者の待合室から雑誌が一掃されているのに気付くなど、変わらぬ日常の中の変わりゆく行動様式を、淡々とした筆致に現実の不穏さを映し出しながら記述してゆく。

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Photo:Saji Kim

 日記は森を一人称とし、森がひとり発語していくが、記述はきわめて客観的に観察される事実を語っていく。ジェンダーの傾きを感じさせない文体は坂本の視点で書かれたとみても不自然さはなく、おそらく二人の視点が交互に、或いは合わさって書かれたものだろう。ただ、客観的とはいえ、ダンサーである二人が芸術センターの閉鎖により稽古場を失った困惑は大きく伝わってくる。リビングで行うレッスンとリハーサルが狭さゆえにストレスフルである様子、身体的にも心理的にも追い込まれていく様子が叙述される。

 

 公演のパンフレットによれば、本作着想の発端はベケットの『しあわせな日々』にある。ただし現実の方が不条理の度を増し、こちらを作品にしようとの考えに至った。確かに狭いリビングで息を詰めて過ごす状態は、半身が土に埋まり身動きの取れないベケットの主人公の状況によく似ている。登場人物の二人がカップルであること、語るのはもっぱら女性の方で相手の男性は言葉を発しないことも共通する。ベケットの劇では女性がひたすらしゃべり続けるが、繰り返される一日一日をかろうじてやり過ごし、不条理の中でモノローグを続けるのは、姿を見せはしないが確かにそこに居るはずのパートナーの存在ゆえである。女性(ウィニー)のモノローグは一人語りであると同時に相手の男性(ウィリー)への語りかけでもあり、ウィニーの生はウィリーの存在によって意味づけられている(*参照:対馬美千子「<もの>と<女>――サミュエル・ベケット」https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=1682&file_id=17&file_no=1

 一方『京都自粛生活日記 Don't Worry!!!』では、一人語る森を坂本が身体で文字通り「支えている」。照明が入ると、床にうつ伏せの坂本の背中に森が膝を抱えて座っていて、そのまま発話を始める。坂本は時折姿勢を変え、森は坂本の背中の上で、或いは坂本の立てた膝に腰掛けて、語りを続ける。発話の途中、日付の変わるタイミングなどで坂本は立ち上がり、森を横抱えにしたり、肩にのせて歩いたり、逆さに担いだりする。再び床に横たわれば、森はその骨盤や胸や腕の上にのって立ち、足元が不安定にぐらつくと、坂本が手を差し出して支える。モノローグを続ける森の身体は常に坂本と接触し、体重を預け、微妙なバランスにより体勢を作っている。森のモノローグは坂本との身体的な関わりによってパフォーマンスの形を成しており、互いの存在は不可欠である。二人が接触を断つことなくフォルムを保ち、変容してゆく過程、それにより時間を耐えてゆく過程は、他ならぬダンスと呼ぶべきものだろう。

 狭いリビングで送るダンサーの自粛生活は、セルのようなミニマムな部屋の一点から世界の動向を伺うに等しいが、20世紀のベケットではなく21世紀のパンデミックにおいて、新しい経験がもたらされる様子を日記は記している。友人とオンラインでするお茶の時間、田舎の母から届く手紙と宅配便、海外の知人から来たメール、ラジオで聞く音楽、配信で見る映画、ZOOMで行うミーティング等々。世界を行き交う新旧さまざまの通信の形式が閉塞するセルを外へ開く。それらが促す思考や想像、世界のイメージについての叙述は、本作の大きな見どころ、聞きどころだ。人のいなくなった街に山から動物が下りてくる様子に人類滅亡後の光景を見るといった、文明史を単位とした語りには思索の深みがあり、ときに詩的なイメージが宿る。各国の作家や文化人の言葉を参照しつつ、パンデミック後の世界を、地球環境を、資本主義の行く末を想像し、この感染症がもたらした人類史上の意味について思いを巡らせる。その一方で、ベランダに蒔いた種の発芽のような身辺の小さな出来事に未来を見ている。あるいは新しい技術であるZOOMを用い、ワークショップフェスティバルの実施にこぎつける。京都のフリーランスのダンサーの視点による個人的な日記は、絶望と希望、虚無と楽観を行きつ戻りつしながら、過去と未来の間で見つめる現在を記していく。この未曽有の危機がもたらした新しい事象と思考の記録であり、個の身体により経験された時代のドキュメントになっている。

 

 モノローグをする森裕子が魅力的だ。訓練された台詞術ではないものの、子音の鋭い明快な発語がテキストの内容をまっすぐに届ける。引用するラジオDJの快活なトーク、Covid-19を擬人化したコミカルな口調など、キャラクター性に富んだ語りが舞台人としての森の別の側面を見せる。利発な語りは森自身の人間性を反映してもいよう。それが日記に言及されるところの自粛生活に巣食う「虚無感」とのバランスを成している。因みに本作タイトル「Don't Worry!!!」はDJが選曲したビーチ・ボーイズのナンバー「Don't Worry Baby!!!」に由来している。片や「虚無感」の側を体現するのは山中透による音響である。ベートーベンの弦楽四重奏曲を引用した音響は、冒頭で低弦の一音の持続が沈痛なトーンを作り、全編において本作のメランコリックな基調をなす。この終末の予感に満ちた世界の基調の上にラジオからオン・エアされる「Don't Worry Baby!!!」が被さり、エッセンシャルワーカーへの、症状と闘う患者への、不安と不自由を強いられる人々への祈りと連帯を込めた応援歌として届けられる。

 

 Monochrome Circusのレパートリーには、東日本大震災と原発事故を受けた一連の作品群〔『それから六千五百年、地球は眠っているだろう』(2011)、『HAIGAFURU/Ash is falling』(2012、2015に改訂版)、『endless』(2014)、他〕があり、いずれにおいても作品を通して核と人類の未来について考察している。振付をおこなった坂本公成は時代が直面する危機に対し鋭敏に反応するアーティストで、3.11以後の自身の苦悩を作品へと昇華し、時を置かずに発表してきた。今回の『京都自粛生活日記 Don't Worry!!!』も、時代の困難への応答である点で――「劇場の灯を消すな」といった議論とは別の次元で――坂本の作家性の現れといえる作品である。先ほど挙げたレパートリー『endless』は、身体を密着させた二人のダンサーが床を転がりながら動き続けるデュエットで、3.11後の価値観の変動の中で絶望しつつも踊り続ける意志を込めた濃密なピースである。今作『京都自粛生活日記 Don't Worry!!!』は主題上の連関とともに、舞踊語彙としての身体の密着をこの『endless』から引き継いでいるといえる。カンパニー結成以来探求してきたコンタクトインプロビゼーションの応用であり、発話を中心とした今作があくまでダンス的な発想で作られていることの証でもある。ダンスによって時間を耐えること――ウィニーのモノローグが行先のない生を常に救済し続けているように、それは滞留する現在を何かしら意味づける生存のための技法といえるかもしれない。

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脚本:高橋智也(劇団東俳)
演出:前田アキヒロ(劇団The Timeless Letter)
振付:羽田兎桃(いいむろなおきマイムカンパニー)
Acast 川田恵三(劇団The Timeless Letter) 大原里香 三浦求(ポータブル・シアター) 今西刑事 林里栄 大林みづき 村田麻美 吉田恭平 北村綾香 水野桜花
Performer 赤川桃 小林古都音 佐藤桃美 さゆ〜る すずきりな 長崎奈央子 美鈴

■上念省三(じょうねん・しょうぞう)
 本稿は、この号の締切日だった5月7日から遡り、1公演当たり1000字前後をめどに、原稿の上限目安である8000字を限度にして、この期間に見た舞台芸術公演を取捨なくすべて取り上げたものです。短評なので楽に書けるかと思ったら、やっぱり逆でした。

 当会関西支部事務局長、西宮市文化振興課アドバイザー、近畿大学等非常勤講師、ミジカムジカ・さなぎダンス等企画制作。 

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松倉祐希 夜夜中
池田勇人 みじんこの唄(監修:金滿里)
栗棟一惠子+MITEI NARICO 地中の夢 〜2022 Metamor Hall

上念省三 劇場漫筆
2022年3~5月の7本 
The TimelessLetter『ハルナに浮かぶ月』 『さなぎダンス#13』 斉藤綾子『マーガレット2』 宝塚歌劇団雪組『夢介千両みやげ』『Sensational!』 朝海ひかる他『サロメ奇譚』 兵庫県立ピッコロ劇団『月光のつゝしみ』 Etsuko Yamamotoアトリエ公演『Livre d’Image=図鑑』

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TheTimelessLetter『ハルナに浮かぶ月』

撮影 佐藤貴子

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■5月5日 大阪市立芸術創造館(大阪市旭区) TheTimelessLetter『ハルナに浮かぶ月』(Aキャスト)

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TheTimelessLetter『ハルナに浮かぶ月』

撮影 佐藤貴子

 指定管理者が替わって、初めて芸術創造館に足を運んだ。前の知り合いはいなかったが、別の知り合いがいて、安心した。


 TheTimelessLetterという劇団は、初めて観る。小劇場とは関わりのない複数の若い知人がすすめてくれたので、行った。海外戯曲を中心に上演をしている、2015年旗揚げの劇団だそうだ。

 

 すごく頼りない兄とすごくしっかりした妹。兄を何とかさせようと、妹がなんでも引き受ける「便利屋」を始めるというチラシを作ってしまい、それを見て訪ねて来た不思議な団体の人たち。隣家に向かって向かって穴を掘れという。そこの娘を救い出せ(誘拐しろ)という注文だ。

 

 連合赤軍のあさま山荘事件から何十年か経って、その頃の子どもたちがすっかり大人になっている。連合赤軍の中心メンバーに殺された親の仇を取ろうと、中心メンバーの仮釈放を狙って集まった団体だったということが、終盤まで伏せられる。復讐が解決になるのか、それは新たな争いを生むだけではないのか…という繰り返されてきたテーマがここでも反復される。

 

 伏線の張り方がやや甘かったり、辻褄が合わないところがあったりしたように思ったが、合う合わないが二転三転し、本当はどっちなんだかわからなくなる程度に、複雑な展開がある。謎解きのドラマにはならず、連合赤軍の一連の事件によって殺された人々の家族のドラマに焦点を当てた作劇だったと言えるだろう。


 ぼくは1972年に12,3歳だった。連合赤軍の人たちが、何か理念を持ちながら、何ゆえか紆曲を重ね、あのようなことに至ったこと を、12歳なりに理解というか、消化というか…は無理でも、とりあえず呑み込もうとしていた記憶がある。そのことで、父親からこっぴどく叱られた記憶もある。

 

 だから、連合赤軍を扱って、家族のテーマに収斂させるようなこの劇の方向については、やや違和感があった。もちろん思想と運動と手段の問題は語られていたが、それを覆うのが血縁という「絆」であることを強調されているようで、何とも言えない気分にもなった。ぼくにはだいたい血縁を信じない/信じたくない、しかしどうにも憧れている、という基本的なコンプレックスがある。


 中心となる兄妹の川田恵三、大原里香は、達者な演技をするが、終盤へのコントラストのためか、そこまでやや軽すぎるように思えたのだが、Bキャストではどうだったのだろう。兄が穴を掘っている間、カムフラージュに庭でバーベキューパーティーをするなど、中盤まではなかなか愉快な展開だったので、そういう狙いでもあったのだろうが。パフォーマーと呼ばれる7人がマイムのテクニックを使って踊る抽象的な場面は、既視感はあるが、劇の展開にはよくなじんでいたと思う。

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TheTimelessLetter『ハルナに浮かぶ月』

撮影 佐藤貴子

■4月29・30日 メタモルホール(大阪市東淀川区)『さなぎダンス#13』

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松倉祐希

『夜夜中』

 ぼくが企画している公演であり、劇団態変の機関誌に記録としてレビューを書かなければいけないこともあって、多くは語るまい。劇団態変のメンバーの作品、コンテンポラリーダンスの2作品を並べたトリプル・ビル。メタモルホールは、劇団態変の本拠。今回は若手の松倉祐希、円熟した魅力の栗棟一惠子とサウンドパフォーマーのMITEI NARICO、劇団態変からは池田勇人の3つの作品を並べた。


 松倉は、止め処(とめど)なく動く、絶え間なく動く、動きが次の動きのきっかけになる、ということを自らに課して、動いた。動いたのだが、その動きは流れだったので、力で動いたようには見えなかった。作用と反作用、引力と斥力の繰り返しのようで、最初だけポンと押せば、止め処なく動き続けていられるように見えた(絶対にそんなことはないだろうが)。それは意思を殺して、機械になろうとしているように見えた。

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栗棟一惠子+MITEI NARICO 

『地中の夢 〜2022 Metamor Hall』

 栗棟は逆に動きを絞って、空間をその身に凝集させて自らの力とし、それによって観客に働きかけるというタスクを抱えているようだった。実際に彼女は一人の観客の身体にふれることで作品の一つのピークを作った。床を足裏で打つことやピークの後に小声で経文を唱えることだけでなく、全体にある種の超越性、崇高性をまとおうとすることで時間を作ろうとしていることが、印象に残った。

 

 池田は足がつんのめり、地面に刺さっていくような動きの特性を生かして、強い切迫感を醸し出すことができる。いわゆる障がい者のダンスと言った時にイメージされがちな悲愴感とは別種の緊張感と共通感覚が与えられ、それが後半のユーモラスでさえある乱舞へとつながっていく。障がいの有無を超えて、彼と観客が身体のどこかを一緒に動かしているような感覚を味わわせてくれるダンサーだ。

 

 このさなぎダンスは、2012年にスタートし、年に2回程度は開催したいと思っていたが、コロナもあり、劇団態変のスケジュールの合間を縫うということもあり、10年で13回とゆっくりしたペースで続いている。今回栗棟は、劇団態変のメンバーと並ぶということの恐ろしさを、だって態変の皆さんの身体は圧倒的じゃないですか…と嘆いていたが、それに対抗しうる存在感を帯びて舞台に立ってくれていることがうれしい。

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池田勇人 『みじんこの唄』

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4月24日(日) 、5月15日(日)

〔作・出演〕​斉藤綾子

​〔会場〕ずぶの学校 (旧ずぶ邸)

​↓ 手書きチラシ

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■ 4月24日 旧ずぶ邸(大阪市東淀川区) 斉藤綾子『マーガレット2』

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『マーガレット2』

​撮影:manami tanaka

 会場は築85年ぐらいの普通の民家で、二間続きの2階をイベントスペースにもできる。畳は日焼けしてちょっとふわふわしているし、ここで開かれたいろんなイベントや教室の名残があって、零度ではない場所で、ダンスパフォーマンスに適しているとは言いにくい。急な階段を上って、通りに面した窓に向かった一間を眺める格好で10人ほどが座って開演を待つ。


 斉藤綾子は、昨年度京都市芸術新人賞を受賞した、今イキのいいダンサー。昨年のサイトウマコト「ロミオとジュリエット」のロミオ、2020年のソロダンス「書くとか歩くとか」(京都・人間座スタジオ)、バレエ団の公演にも出演するなど、幅広く活動している。


 今回もソロダンスなのだが、ソロダンスの求心的な緊迫感が薄く、ダンスを見ているというより、彼女の心の日常的なメモを一緒に読んでいるような感じ。説明しにくいのだが、それをぼくが読んでいるという感覚よりも、彼女も一緒にという感覚が強い。つまり彼女は自身の心を対象化しているように見えるということ。


 斉藤のダンスの魅力は、そこにあるのだと、改めて思う。彼女はダンスに溺れない。幼いころから踊っているのに、ダンスを対象化しているように見える。そのことが特にこの旧ずぶ邸での時間の中で強調されたように思ったのだが、それは会場の空気や置かれている物、人の中に自分のダンスをほぼ等価に置く。彼女は踊りながら、会場や人、物をごく日常的に冷静に見ているように思う。結果的に、なじんでしまう。


 斉藤は去年の6月にも「でん!〜住んでるみたいな顔をする〜」と題して長時間この場所にいて踊っていた。ぼくは2時間ほどいて、コロナのワクチンを打つために中座した。ある公演を途中で退出し、きっとまだ彼女は踊っているんだろうなと思いながら電車に揺られ、ワクチン会場へ行くという、珍しい経験をした。


 この公演は3週間後、5月15日にも開催されている。ぼくは行けなかった。他のお芝居を観ていた。県立芸術文化センターからアイホールに移る途中、今踊ってるんだな、とふと思い出した。季節も少し変わり、会場の家は少し老朽し、ぼくも斉藤も少し死に近づく。彼女の居ずまいに何か変化が見られたのかどうか、想像すると楽しい。来年もまたあるかもしれない。長ーい続き物を見ているような気になる。

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『マーガレット2』

​撮影:manami tanaka

3月19日(土)~4月18日(月)

宝塚大劇場

大江戸スクランブル『夢介千両みやげ』
原作/山手 樹一郎『夢介千両みやげ』

脚本・演出/石田 昌也


ショー・スプレンディッド『Sensational!』
作・演出/中村 一徳

■4月16日 宝塚大劇場(宝塚市) 宝塚歌劇団雪組『夢介千両みやげ』『Sensational!』

 

 「桃太郎侍」「遠山の金さん」で知られる山手樹一郎の小説を舞台化した人情時代劇と華やかなショーの二本立て。お芝居では主演の夢介が大劇場トップ2作目となる彩風咲奈(あやかぜ・さきな)、小田原の豊かな庄屋のボンボンで争いを好まぬお人好し。彩風にはよく合っている。劇中でも言及されていたが、「北風と太陽」で言えば太陽。切れ者には見えないが、お金と力を使うべきところをよくわかっている、究極の賢者とでも言えようか。

 

 それにしても、父親に千両やるから江戸で道楽修行をして来いと言われたからとはいえ、何かトラブルに巻き込まれると、頭を下げて五十両をポンと渡して「これでごめんなすっておくんなせい」と繰り返すものだから、けっこうイライラする。お人好しも極まれり、あまりに能天気というか、金持ってるからできるんだよなと妬ましく、いい加減にしろよと言いたくもなる。

 

 が、悪七(綾凰華 あや・おうか)がお滝(希良々うみ きらら・うみ)の美人局として、飛脚問屋・伊勢屋の放蕩息子、総太郎(朝美絢 あさみ・じゅん)に捻じ込んできたのをみごとに解決するあたりでだったろうか、夢介の世渡りの極端な姿勢が、ただのお人好しには留まらない、アナーキーで破壊的なものに感じられ、現在の様々な趨勢に対する痛烈なアンチテーゼであるように思えてきた。


 とにかく夢介のお人好しは、他人の人生をよい方に変えるのだ。知る限りでは、そんな人はイエス・キリストぐらいしかいない。そしてイエスは同時代には、反社会的な革命家であった。


 だから、最後に偽旗本(真那春人 まな・はると)率いる一つ目一家の捻じ込みに、これは我慢ならねぇと刀を抜くのが、不満だった。劇のクライマックスとして激しい場面を入れたかったのはわからないでもないし、原作がそうだったのかもしれないが、夢介らの完全勝利に終わったわけでもなく、結果的に夢介の押しかけ女房お銀(朝月希和 あさづき・きわ)が罪を犯すことになってしまったために、後味がよくない。最終的にはハッピーエンドだが、すっきり終わってもよかったように思う。


 ショー『Sensational!』では本作で退団となる綾凰華から目が離せない。綾の魅力は、常に愁いを帯びているような表情と、キレのあるダンス。憂愁が速度と角度をもっているというのは、観る者の心を鋭くえぐることになる。そういう男役だった。星組時代から、最後まで目が離せなかった。


 そして新たに組替えで雪組にやってきた和希そら(かずき・そら)が視界にも耳にも飛び込んでくる。長年宝塚を観てきて、人事案件を語るのはやめようと誓ったのだが、さすがにこの組替えは、現二番手の朝美の地位を揺るがす。ダンスと歌の実力は、はっきりと和希のほうが上だ。和希のほうが先にドラマシティ主演(『心中・恋の大和路』)が決まった。どうするのだろう。

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4月9~10日

梅田芸術劇場シアター・ドラマシティ

原案:オスカー・ワイルド「サロメ」
出演:朝海ひかる 松永玲子(ナイロン 100℃) 牧島輝  ベンガル
東谷英人(DULL-COLORED POP) 伊藤壮太郎 萩原亮介

■4月10日 シアター・ドラマシティ(大阪市北区) 『サロメ奇譚』

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『サロメ奇譚』

撮影:岩田えり

 宝塚歌劇の元トップスター、朝海ひかるの芸能生活30周年公演で、脚本はブス会のペヤンヌマキ、演出は稲葉賀恵。東京公演を経ての大千秋楽を観た。


 サロメの舞台を現代に置き換え、父ヘロデの職業を「風俗王」、その部下たちを黒服にするという大胆な脚色。義父ヘロデ役のベンガルの劇としてのトーンを壊しそうな怪演もあって、途中でサロメを見ているという意識が遠ざかりそうになる。オスカー・ワイルドのスタイルでなら、まずありえないような下世話さと、演劇的ではなく日常的とでもいうようなセリフの出し方をするベンガルにイラついている間に、そのイラつきはおそらくサロメの苛立たしさと同じなのではないかということに気づいていく。


 サロメは、苛立ちの日々を送っている。それがとてもよくわかる芝居だ。苛立ちはおそらく解決しにくい。金持ちのお嬢様でありながら、その裕福さの由来は「風俗王」であり、サロメの衣裳の純白は、おそらく本人には風俗業から発したけがらわしさにまみれたものと映っているだろう。苛立たしさの原因が外部に特定して切り離せるものなら、苛立たない。原因が複数絡み合っているか、絶対に除去できない類いのものだから、苛立たざるを得ない状況に置かれてしまっているのだ。


 実母へロディアの松永玲子も、平凡な成金の後妻をアクたっぷりに好演。娘を溺愛しながら、夫(の財力による庇護)を失わないために娘を夫が気に入るように手を尽くすいやらしさ、それがサロメを苛立たせているということがわからない愚かさが、あふれ出ていた。

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『サロメ奇譚』

撮影:岩田えり

 朝海は、そもそもダンスの人。宝塚時代はやや身長が低かったこともあって、男役でありながら女性や中性的な役柄を演じたことも多かった。本人はあくまで男役を志向していたが、娘役への転向をすすめられていたという噂も聞いたことがある。『ベルサイユのばら』のオスカルをさせるために立ち消えになったというのだから、やや倒錯した話だ。今回のサロメで、白いパンツスーツで現れ、ヘロデの還暦祝いのパーティーだからドレスで踊りなさいと強いられるのが、宝塚時代に女役をさせられていたことを思い出させ、30周年の歩みを踏まえた物語だと腑に落ちたりもした。退団後はミュージカルはもちろん、こまつ座をはじめストレートプレイでの存在感が際立っているように思う。

 本作では終始苛立ち不満げな役作りの中で、ヨカナーン(牧島輝)との時間にだけ、笑顔があった。宝塚在団中から、クールを通り越していつも怒っているような役柄が多く、喜びや積極的な感情表現はダンスで語る役者であったから、本作で朝海の感情表現を「七つのヴェールの踊り」に集約させたのは、説得力があった。表現力が増し、成熟したダンスには歳月の経過を感じさせるとともに、昔日の華やかで鋭いダンサー朝海を思い出させるに十分な華やぎがあった。

■4月10日 ピッコロシアター中ホール(尼崎市) 兵庫県立ピッコロ劇団オフシアターVol.38「月光のつゝしみ」

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4月8日(金)~10日(日)

作:岩松 了(ピッコロ劇団代表)1994年作
演出:眞山直則(ピッコロ劇団)

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​『月光のつゝしみ』

提供:兵庫県立ピッコロ劇団

 トイレと風呂の扉が壊れてしまっている一軒家、という設定が何を意味するのか、わからないようでわかるような、そういう距離の取らせ方がうまい。2組というか2.5組の男女の、それぞれに少しずつねじ曲がった感情の流れが自然に明らかにされていく。謎解き的な面白さもあるが、謎が解かれるわけでもないところが、もやもやしていい。


 考えてみれば、それは当たり前の、ごく日常的なことなのかもしれない。姉弟という肉親だからこそ入り込めるところ、逆に入り込めないところ、夫婦だから入り込めないところが、丁寧に腑分けするような手つきで描かれていく。


 最も印象が強いのは、樫村千晶演じる直子と言っていいだろう。ヒステリックで騒々しく、弟の民男(原竹志)への当たり方もきつい。劇中の登場人物からも、観客からも、困った存在、いやな感じのする人であることに違いない。学校の教師らしいが、何か不祥事があったか巻き込まれたか、辞めることを前提に休職しているらしい。


 民男は高校時代は秀才と呼ばれ、東大間違いなしぐらいの勢いだったようだが、今は公務員として市民センターか何かの事務員をしているようで、そのことで姉から小ばかにされている。だいたいは黙って耐えているのだが、時折爆発する。姉弟という肉親ならではの暗部に踏み込む傷つけ方をお互いにしてしまう。逆に、年の離れた妻・若葉(鈴木あぐり)との関係は精神的にも肉体的にも稀薄すぎるのか、微妙にぎくしゃくしているのが痛々しい。


 この2人のいやな感じ、痛々しさ、うるささが、この劇全体にしみわたっているように思えたのは、演出の狙いだろうか。多くの場面は上記に加え、姉弟の親戚で幼馴染のサラリーマン宮口(谷口遼)、その結婚相手の牧子(木村美憂)の5人で展開されるが、皆何かしらの問題を抱えていてちょっと外れたようなテンションがあって、例えば牧子は唐突に台所で手首を切る。


 それは確かに大変な事件であり、夫の不貞が疑われているような背景があるようだが、直子はそれでタガが外れて狂乱のような状態になってしまう。そして、憑き物が落ちたように、さっき投げ捨てた同僚(吉村祐樹)からのプレゼントを探しに駆け出す。


 それらに理屈をつけてたどることは、できるかもしれない。しかし、人の日々、歳月の出来事が理屈で通るものではないことを、改めて思い知らせてくれる。それにしてもこの直子という人、何をしでかしたのか、あるいはどんな濡れ衣を着せられたのか。

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​『月光のつゝしみ』

提供:兵庫県立ピッコロ劇団

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Etsuko Yamamotoアトリエ公演「Livre d’Image=図鑑」

構成:山本悦子

ピアニスト:山本規子

出演:山本悦子・山本隆之・佐々木大・青木崇・石川真理子・末原雅広・伊東葉奈 

米沢唯・速水涉悟

■3月27日 大阪国際交流センター(大阪市天王寺区) Etsuko Yamamotoアトリエ公演「Livre d’Image=図鑑」
 京都、大阪でバレエスタジオを開いている山本悦子のアトリエ公演ということだったが、複数の教室のまだ幼いといってもいい生徒を集めてピアノの生演奏で基本をさらう「バレリーナへの第1歩」(山本悦子振付)をはじめ、単なる一つのスタジオの発表会ではない。全編オリジナルの創作作品で、バレエ、バレエダンサーに対する熱い思いのあることが感じられる公演だった。


 それはゲストダンサーのラインナップからも窺える。新国立劇場バレエ団の米沢唯、速水渉悟をはじめ、内外で輝かしい経歴や受賞歴を持つ山本隆之、佐々木大、青木崇、末原雅広、そして伊東葉奈は今年のこうべ全国洋舞コンクール・女性シニアの部で1位を取った伸び盛りのダンサーだ。

 

 このような錚々たるダンサーを若い、幼いダンサーたちに感じさせることを、山本は意図したのだろう。6つのバレエスタジオから13人の若いダンサーを集めたオープニングの「ブランデンブルク協奏曲+α」もまた、舞台を面として大きく使う中で、一人ひとりの技術と表現力がおおらかに発揮され、ユニゾンも美しい、印象に残る作品となった。

 

 キャリアのあるダンサーの個性や魅力を生かしたオリジナル作品が並んだ。山本悦子振付の「envelope」はサン=サーンスやリストのよく知られた曲を使って、伊東、山本隆之、佐々木が3人の関係性を苦悩や喜び、悲しみと様々な表情で豊かに描いた。石川の振付で石川と末原による「apó edó」は、ローラン・プティの作品のようなしゃれっ気とユーモアのある作品で、2人の高い技術と爽やかな雰囲気をよく出せていた。玄玲奈が山本悦子と青木崇に振り付けた「Le Parfum」は、シャネルとストラヴィンスキーを題材としたそうで、しっとりと濃密な悲しみが強く伝わってくるドラマティックな作品で、その激しさを表わすために2人には華麗なテクニックが必要なのだと納得させられた。これら3作品は、ピアノの山本規子の力が大きい。


 山本悦子振付の「じゃじゃ馬ならし」は米沢と速水のスピード感あふれるユーモラスな動きが存分に発揮され、テクニックの存在やバレエであることすら忘れて2人の動きのやり取り、コミュニケーションの楽しさに浸りきることができた。ショスタコーヴィチの交響曲第5番の第2楽章だったと思うのだが、この曲をこんなに軽々と「じゃじゃ馬ならし」に使えるとは、驚いた。最後の「アトリエ~図鑑~」は山本悦子の「構成」で、ダンサーたちが自由に振り付けた感のあるフィナーレピース。キャリアのあるダンサーたちが余裕をもってバックステージのリラックスした気分転換のような雰囲気からそれぞれの魅力を存分に見せるおしゃれで楽しい時間で、バレエのクリエイションってこんなに楽しいものかと、改めて認識させられた。

 

 振付でばかりふれてきたが、山本悦子本人のソロもとてもシャープでカッコよかったことを、言い添えておこう。

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