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公演評

震災の中で新聞発行に命をかける記者たちの姿
―― 関西芸術座『ブンヤ、走れ!』

瀬戸 宏

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関西芸術座『ブンヤ、走れ!』(2021年12月)関西芸術座提供(この項すべて)

 1995年1月17日の阪神・淡路大震災からすでに27年が経過した。いま神戸の街を歩いても、震災の爪痕を見かけることは稀である。立ち並び賑わっているビル街からは、死の匂いはまったく感じられない。しかし、四半世紀前の神戸、阪神一帯は、一面の廃墟だった。私は大阪在住だが、震災後の神戸の街の破壊のすさまじさに衝撃を受け、それが『阪神大震災は演劇を変えるか』(AICT関西支部内田洋一、九鬼葉子、瀬戸宏編、晩成書房、1995年)を編集する原動力になったことを思い出す。日本ではその後東日本大震災が起きたが、だからといって阪神・淡路大震災の記憶は忘れられていいものではない。
 関西芸術座『ブンヤ、走れ!』は、そのような震災の記憶を再び甦らせ、震災の中で懸命に生き続ける人間の姿を、震災の中で新聞発行に命をかける記者らの姿を通して描いた演劇作品である。「~阪神・淡路大震災 地域ジャーナリズムの戦い~」という副題が付いている。2021年12月18日午後3時からの上演をエル・シアターで観た。本来は震災25年の2020年に上演予定だったが、コロナ禍のため2021年になったという。
 この作には原作がある。神戸新聞社編『神戸新聞の100日』(1995年11月プレジデント社、1999年12月角川ソフィア文庫、以下、『100日』と略記)である。
 震災前、神戸新聞の本社機能は新聞会館という名称のJR三宮駅南側に接した自社ビルにあった。JR三宮駅プラットホームから見えた新聞会館北側一面タイル張りの大きな富士山の山一証券広告が、今でも鮮明に記憶に残っている。しかし新聞会館-神戸新聞本社は震災で致命的な打撃を受けた。1995年当時、新聞製作はすでにコンピュータ化されていたが、その新聞作成機能が使用不能になっていた。幸い神戸新聞は京都新聞と前年に「緊急事態発生時の新聞発行援助協定」を結んでいた。神戸新聞は京都新聞に連絡を取り新聞発行援助を要請し、京都新聞も依頼を引き受け、17日当日の夕刊、翌18日の朝刊など大幅にページを減らし発行時間も大きく遅延しながらも、休刊することなく発行することができた。神戸新聞から京都新聞に原稿を電話で送り、京都新聞のシステムを使って紙面を編集し、それを原板フィルムに撮って損傷を免れた神戸市西区の神戸新聞製作センターに届けて紙面を印刷したのである。

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 こう書くと順調に両新聞の連絡が進み新聞が発行できたようだが、実際には神戸-京都の連絡だけでも大変な困難があった。神戸新聞社の電話機能がほとんどマヒしてしまったからである。『100日』にはその間の苦闘や被災の神戸で記者が見た震災直後の光景、苦しむ被災市民と傍観者の位置に居ざるを得ない記者の矛盾、新聞を読者に配達する専売所の被災、編集だけではない新聞社内のさまざまな動きなどが詳細に活写されている。
 関西芸術座『ブンヤ、走れ!』は、『100日』に基づいた演劇作品で、震災から26年後、現在は論説委員になっているかつての女性記者が、見学に来た中学生に震災について説明するところから始まり、震災当日に移っていく。だが、脚色の駒来愼がプログラムで述べているように、『ブンヤ、走れ!』は『100日』の忠実な劇化ではない。たとえば、神戸新聞の当時の社長は荒川克郎という名前だが、『ブンヤ、走れ!』では宮水和彦となっている。京都新聞社から原板フィルムをバイクで神戸新聞に届ける青年は渡辺という男性だが、劇中では勝呂圭という女性記者になっている。劇の随所で社員たちの食事に気を配る芝原奈々子という社員食堂従業員が登場し良いアクセントになっているが、『100日』ではわずかに単行本後書きで社員食堂スタッフが当日から炊き出しをしてくれたことが触れられているだけである。
 劇は、震災当日神戸新聞が京都新聞の協力のもとで夕刊を発行する困難な過程とその達成が中心になっている。門田裕演出の進行はスピーディで、さまざまな社員がからみあう群衆劇のように進行していく。そのため、この『ブンヤ、走れ!』は一定の見応えある舞台に仕上がっている。東灘区にあった神戸新聞販売店が震災の苦難の中で読者に新聞を届ける苦闘も、描かれている。
 ただ、私はこの舞台に不満も感じた。劇中人物の個性の表現が、必ずしも際立っていないのである。登場人物が一種の記号化しているため、性格を通じてその人物の背後にいる様々な人物が見えてこない。登場人物だけの特殊地帯での出来事のように見えてしまうのである。上演台本が公表されていないので、これが脚本の問題か、俳優の演技の問題か、今の私は具体的に分析できないが、複雑な人物像の表現は、新劇という演劇形態の重要な特徴である筈である。群衆劇とその中の個人の性格表現は、決して矛盾しない。『ブンヤ、走れ!』が描いている内容は、一回の公演で終わりにしてよいものではない。人物像を練り上げ、より質の高い舞台にして再演していただきたいと思う。

追記、校正段階で、『ブンヤ、走れ!』が2022年5月7日神戸新聞松方ホールで再演されることを知った。詳細は関西芸術座ホームページ参照。https://kangei.main.jp/

関西芸術座『ブンヤ、走れ! 〜阪神・淡路大震災 地域ジャーナリズムの戦い〜』


2021年12月17日(金)18:00,18日(土)11:00/15:00
エル・シアター(大阪市)

原作:神戸新聞社『神戸新聞の100日』

脚本:駒来愼

演出:門田裕

美術:加藤登美子

音楽:ノノヤママナコ

映像制作:市村知崇

宣伝美術:市村知崇、恒川愛子

照明:福井邦夫

音響:廣瀬義昭

舞台監督:辻村孝厚

制作:ふちがみまゆ、吉田真由、林陸人、鴻池央子

出演:菊地彩香、川瀬真理、永井敦子、梅田千絵、森本竜一、亀井賢二、多々納斉、南谷峰洋、藤吉雅人、伊能努、横岡祐太、多田慎吾、上沢拓也、山本峻也、酒井雅代、岩村春花、前田英利、夢前ゆり、向田至、松本幸司、山岡由梨子、濱田楓香、田中恵理、保田麻衣、芳本亘世、松寺千恵美、武田直子

 

 

瀬戸宏(せと・ひろし)

1952年生。摂南大学名誉教授。AICT日本センター関西支部長。中国現代演劇専攻。著書:『中国の現代演劇-中国話劇史概況』(東方書店、2018年)ほか。

復活上演にみる現代の松竹新喜劇のありよう
―― 松竹新喜劇 『お家はんと直どん』『お祭り提灯』

瀧尻浩士

お家はんと直どん

「お家はんと直どん」

(C) 松竹

 現在の松竹新喜劇のホームグランドである松竹座では、昨年来のコロナ禍の影響で2年ぶりの舞台となる。中座があった頃に比べると今の上方喜劇の状況には寂しいものがあるが、現在の演劇界全体が厳しい状況下にあって、京都の南座と共にこうして定期的に公演できる場所があることは、松竹新喜劇にとっては幸運なことである。
 このたびの錦秋公演の演目は『お家はんと直どん』と『お祭り提灯』の2本立て。どちらも過去の名作狂言だ。松竹新喜劇得意の人情喜劇とオーソドックスなドタバタ喜劇という毛色の異なる演目は、上方喜劇にあまり馴染みがない観客が大阪の伝統的喜劇を知る上では良い組み合わせだろう。
 『お家はんと直どん』の初演は昭和25年で、NHKの朝ドラ『おちょやん』でも劇中劇として取り上げられた作品である。今回は昭和53年の上演以来、43年ぶりの復活上演となる。過去の作品を中心に上演してきている現在の松竹新喜劇だが、この作品は長い間再演されなかった。
 本作は、舘直志(二代目渋谷天外)と茂林寺文福(曾我廼家十吾)の合作である。だが今回の上演では、曾我廼家十吾の匂いがあまり感じられなかった。プロットには劇の筋にこだわった天外らしさが感じられるのだが、一方喜劇の原点を「俄」に見ていた十吾らしい客受けする笑いの要素は薄く、いくぶんシリアスな芝居に傾いている印象を受けた。だがそれが今の松竹新喜劇らしい上演の仕方とも言えるだろう。
 では今のこの劇団らしさとは何か。それはよく言えば一つの劇を上演するのに全体の調和が取りやすい劇団員の構成、悪く言えば突出した喜劇役者の不在といえるだろう。つまりは平成・令和の曽我廼家十吾、あるいは十吾の俄の系譜を継ぐ藤山寛美がいないということだ。初演では、お婆さん役を得意とした十吾が「お家はん」の伊藤てるを演じ、かつて店の丁稚で、てるの恋人だった「直どん」こと辻直吉を二代目天外が演じている。喜劇としてのおかしみと劇の見どころは、男性の十吾が女性の「お家はん」をユーモアとペーソスをもって巧みに演じるそのキャラクター性と、息子の恋愛騒動をきっかけに、かつて誤解したまま別れたてると直吉の間にあったわだかまりが解けるプロセスにある。私自身は、年代的にも十吾在籍時の本作を見ることは叶わなかったが、後年の十吾演じるお婆さん役を別の作品で見た時の印象から、息子の恋人の父親がかつての恋人「直どん」であることを知る前と後の「お家はん」の反転ぶりの面白さが想像できる。本来は、「お家はん」を十吾のような役者が演じてこその、タイトルロールに相応しい喜劇となる作品だと考えられる。しかし今回の配役ではそうした面はあっさりと流され、喜劇の笑いにまで十分到達していない。
 十吾退団後は、「お家はん」を酒井光子が演じた。酒井光子は藤山寛美が亡くなるまでの松竹新喜劇全盛期を支えた中心メンバーの一人だが、本来、酒井は笑いの人物を受ける側で、自身が笑いを産むタイプの俳優ではない。ゆえに十吾が演じるべくして書かれたこの作品の、この役にあったであろう笑いの部分が変質してしまったことは想像に難くない。しかしそれでも彼女の「お家はん」役で再演が叶ったのは、初演では、てるの息子で恋騒動を起こす次男芳雄を演じた藤山寛美が、今度は長男で店の主人である庄一郎の役で、十吾の果たした喜劇の役回りを務めたことが大きかったのではないか。十吾退団後の当時の劇団状況に合わせて、喜劇的人物の役回りを変えたことで、寛美時代の再演は、十吾・天外時代とは異なった味の喜劇として成立したと思われる。だがその寛美が亡くなり、卓越した喜劇のスターが不在となってしまうと、この演目は笑いの喜劇と筋重視の人情劇との間でバランスが上手く取れないものとなる。この作品が長年再演されることがなかった理由のひとつがここにあるのではなかろうか。

中座(なかざ) 歴史は17世紀にさかのぼるとされ、19世紀初頭には竹本座、角座、豊座、竹田座と並んで道頓堀五座と称されていた。火災や台風による被害をたびたび受けたが、戦後は1948年に再建、松竹新喜劇の拠点となっていたが、1999年に老朽化によって閉鎖された。

渋谷天外(二代目)(しぶや・てんがい) 1906-1983、松竹新喜劇を創立した上方を代表する喜劇俳優、劇作家。1928年曽我廼家十吾らと松竹家庭劇を結成。29年2代目渋谷天外を襲名し、46年松竹家庭劇を脱退して劇団すいーとほーむを主宰。48年松竹新喜劇を創立。以後、舞台、ラジオ、映画と喜劇一筋に歩み、上方喜劇王の異名をとった。65年に脳血せんで倒れてからは実質上の座長を藤山寛美に譲った。(コトバンクより)

曾我廼家十吾(そがのや・じゅうご または とおご) 1891-1974 1906年曽我廼家十郎に弟子入り、文福と名のる。のち各地を転々、十郎の死後五郎の一座に入り十吾と改めた。28年渋谷天外と松竹家庭劇を旗揚げしたが46年に決別、48年に再度組んで松竹新喜劇をおこした。老婆役を当たりとする。(コトバンクより)

お家はんと直どん

「お家はんと直どん」

(C) 松竹

 ではなぜ今回43年ぶりの復活上演に至ったのだろう。過去のレパートリーを掘り起こす作業の中で、現在の劇団状況にあわせた再演方法が見えたのかもしれない。果たして本作は、初演の「十吾型」ではなく、再演の「酒井型」の作品として蘇った。そして劇のバランスは、喜劇から少しシリアスな人情劇に軸がシフトしたようだ。それは井上恵美子という俳優が、今回の上演で「お家はん」を演じることと無関係ではないだろう。彼女は酒井光子と同じく劇団員ながら喜劇女優の役割にはない。喜劇の中で真面目な役を担う俳優である。従って、船場の大店の奥様の風格には十分だが、十吾のような笑いの中心人物にはなれない。現代劇でありながら、台詞回しも少々時代がかっている。彼女のプロフィールを見ると、初代水谷八重子に師事した新派出身の女優であることがわかる。なるほど彼女の風格と喜劇性の無さはそこにあるのかと納得する。普通ならそこで喜劇としての失敗もあり得るが、今回の上演は喜劇というよりむしろ感動的な人情芝居に重きを置くことで、復活となりえたといっていいかもしれない。かつての演出が十吾や天外、寛美によることで喜劇として作品が生きていたのに対して、主演の一人が新派出身の女優であること、そして演出が劇団新派文芸部の齋藤雅文であることで、より新派的なものへと色合いを深めたと考えられる。今の松竹新喜劇が抱える喜劇のスターの不在という欠点をカバーしつつ、ある種調和の取れた現行メンバーを過不足なく活かせる物語重視の上演としたことが、作品の復活を可能にしたのではないだろうか。劇団の結成ルーツの中に、新派から流れてきた俳優がいたことも考えれば、それはあながち松竹新喜劇の本筋から外れたものではないのかもしれない。
 もう一方のタイトルロールである「直どん」役は、曾我廼家文童が演じた。劇団の全盛期を知る超ベテランである。初演の笑いに立ち戻るやりかたを取るとしたならば、十吾の弟子である文童が「お家はん」をやり、三代目天外が「直どん」を演じるのが、復活上演には相応しい配役だと思うのだが、今回は「酒井型」の再演に近いものとなっているのが個人的には少し残念だ。
 だがそんな中、見せ場のある脇役の良さが活かされた配役もあった。かつて藤山寛美が演じた長兄庄一郎の役である。今回はそれを曾我廼家寛太郎が担った。今回のお家はん役が「酒井型」であるゆえに、喜劇的役回りを彼が一身に引き受けることになる。曾我廼家寛太郎が笑いを生み出せる喜劇役者として、この役のための機が熟したことも再演可能となった理由としてあげていいだろう。いつもはどこかとぼけた役が多いのだが、今回は眉も吊り上げて描いており、大店の主人としての商売人らしさと船場のぼんぼん気質の両方を合わせ持つ長兄を演じ、芸の幅の広さを感じさせた。
 もう一本は、比較的再演頻度の多い『お祭り提灯』である。落とし物の財布をめぐって人物が右往左往する姿に笑いが起こるドタバタ劇だ。花道を行ったり来たりする動的な芝居なので、人情の機微の表現というよりは滑稽な動きが劇を展開する上で主要素となるために、体力的にも中堅や若手の役者が活かされる演目である。
 物語のオチとなる人物、丁稚三太郎役は、藤山寛美の当たり役のひとつで、これを寛美の孫である藤山扇治郎が演じている。当代随一の天才喜劇役者藤山寛美の持ち役をやることは、他の誰にとっても容易なことではない。本作に限らず、「血筋」という理由で寛美の役を扇治郎に配役することは興行的には妥当な選択だろうが、演技者本来の個性と技量の点からすると、世襲歌舞伎のような技術の伝達がないままの配役は酷な部分もあるかと思われる。扇治郎自身は喜劇役者として良い個性を持っている。但しそれは藤山寛美のそれとは違うものだ。寛美の孫であることから解放して、彼の個性にあった配役、新作を作ることこそ、未来に向けての劇団の新しい魅力づくりのためには重要なことではないだろうか。

松竹新喜劇 錦秋公演
『お祭り提灯』
『お家はんと直どん』

2021年11月6日〜11月21日
大阪松竹座(大阪市)

『お家はんと直どん』 二場
 舘直志・茂林寺 文福 合作 
 齋藤雅文 演出
『お祭り提灯』 二場
 舘直志 作
 星四郎 脚色
 米田亘 演出

 

出演:渋谷天外、藤山扇治郎、井上惠美子、髙田次郎 / 曽我廼家文童 
曽我廼家八十吉、曽我廼家寛太郎、曽我廼家玉太呂、江口直彌、川奈美弥生 
曽我廼家一蝶、曽我廼家いろは、曽我廼家桃太郎 他

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「お祭り提灯」

(C) 松竹

 また今回「令和の曾我廼家誕生!」と銘打って、一蝶、いろは、桃太郎の若手3人が曾我廼家の名前を新たに名乗ることになった。全盛期を知らない若手を旧作レパートリーの笑いのなかでどう活かせるか。それはベテラン、中堅俳優たちの指導力にかかっているといっていいだろう。ところが現劇団員には笑いを牽引する役者が少ない。座長の天外、重鎮高田次郎、中堅の曾我廼家八十吉、玉太呂、若手の渋谷天笑と、基本二枚目路線の役者が現在の劇団の軸となっている。その風貌、存在自体で元来三枚目の気質を漂わせるのは、寛太郎ぐらいだろうか。彼にしても、寛美のような求心的アホ役というよりも、どちらかといえばアホ役の俳優と笑いのキャッチボールができるおとぼけ役が似合う役者である。昔で言えば寛美に対しての、千葉蝶三朗であり、小島慶四郎の役どころだろう。女優について言えば、寛美の演技に対して笑いで返すことができるようなかつての月城小夜子のようなコメディエンヌがいないのも残念だ。いずれにしても、笑いを生む若手役者の育成が劇団の急務であることは間違いない。そういう意味では、「令和の曾我廼家」の誕生は、上方喜劇にとって朗報である。「新喜劇」は吉本だけではないことをZ世代にも知ってもらうために、また元来お笑い好きの関西人に地方言語で笑いを生み出すこのユニークな喜劇団の存在をもっと誇らしく思ってもらうために、松竹新喜劇ができることはまだまだあるように思われる。そういう意味でも、今回の復活上演は、単なる過去へのノスタルジーではなく、「今の松竹新喜劇」のありようをうまく映し出した公演だったといえるだろう。

瀧尻浩士(たきじり・ひろし)

演劇研究。上方落語、文楽、宝塚と関西ゆかりの芸能をこよなく愛する。明治大学文学部卒業、オハイオ大学大学院修士課程(国際学) 修了。商社勤務を経て、大阪大学大学院博士前期課程 (演劇学) 修了、現在同大学院博士後期課程に在籍。

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​終演後のご挨拶(新 曾我廼家3名のご紹介)

(C) 松竹

その者らが獲得したもの
―― サイトウマコトの世界vol.9『ロミオとジュリエット』

上念省三

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写真:井上大志(この項すべて)

□不条理な死を強いられた無名人

 さんざん上演され、語りつくされてきた『ロミオとジュリエット』を今さら語ろうとするにあたって、このサイトウマコトによる舞踊版については、まずロミオを女性である斉藤綾子に割り当てたことが眼目となるのだろうが、それを一旦脇に置きたくなるほど、上村崇人に当てられた「不条理な死を強いられた無名人」という存在が気になった。
 ロミオと彼を取り巻く若者たちやジュリエット(池田由希子)が疾走しているようであるのとは対照的に、彼の時間は止まっている。そしてプレスギュルヴィック版の「死」、それを基に小池修一郎が脚色した宝塚歌劇版の「愛」「死」とは異なり、彼はこの世に介入しない。ジュリエットやロミオを死へと誘うわけではないし、マーキューシオ(末原雅広)やティボルト(原田みのる)が落命する場面でも、ことさらに己が世界へと手を差し伸べることもしない。彼は、こう言ってよければ、自分自身を死へと強いた現実世界に戸惑い、恐れ、立ち竦んでいるようなのだ。
 彼は冒頭、ロザライン(辻史織)やモンタギュー夫妻(サイトウマコト、佐々木麻帆)が行き交う中、舞台に呆然と座り込んでいる。また両家の若者たちが激しく争い大公(中谷仁美、ちなみに女性)が間に入る最中でも、舞台の中央でゆっくりとしか動いていない。彼にだけ、異なる時間が流れていることは明確だ。
 結婚式後のロミオとジュリエットが人型のようにも見えるヨギボーの山に押し込められた後に、そこから出てくるのも彼である。シューベルトの弦楽四重奏曲『死と乙女』で女性ダンサーと踊るのは、美しく激しく、ドラマティックだったが、観る者はもちろん悲劇が近づいていることを知っている。彼ももちろんそのことに気づいているだろうが、その表情からは、何もできないことの絶望しか伝わってこない。だから、その動きの激しさは、とてもデスペレートなものに見える。そういう鋭角で暗い動きも、上村にはまた似合うようなのだ。彼はマーキューシオとティボルトの後ろに回るが、この場面でほとんど唯一、作品の内側に干渉することになる。彼の持っていたカッターナイフをティボルトがもぎ取り、マーキューシオを刺してしまうのだ。ややあって、彼は刺されたマーキューシオと目を合わせる。マーキューシオが彼を詰るわけでもなく、彼が誘い込むわけでもなく、淡々とマーキューシオの痛みが増す。
 おそらく彼は、両家のどちらにも属さない、権力も富にも無縁な一市民でしかなく、想像をたくましくすれば、両家の争いに巻き込まれて落命してしまった、不運な男なのではないか。自分がなぜ死んでしまったのかもまだ理解できず、さまよっている。自分を巻き込んでしまった事態が繰り返されていることが、よく理解できない。……この作品の中で、最も当事者性が稀薄でありながら、悲劇に巻き込まれ、両家の若者たちを告発することもできる立場にあるのだが、そんな気力はもう残されていないのかもしれない。

 ティボルトが死んだ後、キャピュレット夫人(長尾奈美)とモンタギュー夫人が大きなユニゾンを踊る。悲しみとも怒りともつかず、無に近づいているような凄まじさがある。『死と乙女』のエッジの鋭い演奏が、両家の人々に突き刺さるようだ。その中央で「無名人」は今にも崩れ落ちてしまいそうなジュリエットと共にある。ジュリエットは傀儡のようになってしまっていて、彼がその骸のような身体を水平に滑らせる。間もなくジュリエットは修道士ロレンス(矢﨑悠悟(旧名ヤザキタケシ))に眠り薬を打たれることになる。

サイトウマコトの世界vol.9『ロミオとジュリエット』


2021年10月22日~24日
アイホール(伊丹市)

構成・振付・演出/サイトウマコト
出演/天野光雄、池田由希子、遠藤リョウノスケ、上村崇人、斉藤綾子、佐々木麻帆、佐藤惟、末原雅広、十川大希、辻史織、中田一史、中谷仁美、中津文花、長尾奈美、原田みのる、藤原美加、舞羽、松倉祐希、矢﨑悠悟、山口章、サイトウマコト

プレスギュルヴィック版 

2001年パリ初演、フランス発のロック・ミュージカル。作詞・作曲も含めてジェラール・プレスギュルヴィックGérard Presgurvicが手がける。世界各地で上演され好評を博し、日本では小池修一郎の脚色によって、2010年に宝塚歌劇団星組によって上演。

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中央:上村崇人(不条理な死を強いられた無名人)

□ただ見る人(ヴォワイヤン)

 あるいは、ロミオもジュリエットも死んで、二人の衣裳が舞台中央に残る中、彼はヨギボーの山の傍らに座り込んでいる。その山へと、ロミオとジュリエットの魂は姿を消していく。彼は二人の現世から来世への繋ぎ手、導き手というより、ただ見ているだけの存在のようだ。二人を迎え入れることが、彼にとってよいことでもなく、かと言って悲しむべきことでもない、単に受け入れるべき出来事、といった体である。未だかつてロミオとジュリエットという悲劇に対して、このような無の状態で居合わせる人物の存在を、知らない。
 ぼくたちは今この世界の(ごく近くの)様々な出来事に対して、どのような態度でいるだろうか。そんなことを考えると、いつも思い出すのは、シディ・ラルビ・シェルカウィが『踊りで世界を救う、41日の闘い』(2016年、WOWOW)の中で語っていた、次のような言葉だ。「情報を鵜呑みにして、信じ込んでしまう狂信者がいる。あなたが忙しい1日の仕事を終え、帰宅した夜、テレビをつけ、こう言う。「今日の話題はこれだな」新聞の見出しを読んで、スポーツ番組を観る。……それこそ洗脳システムというものだ。もちろんそこに真実はない。真実を探すためには、努力が必要なのだ。今見ている世界は真実の世界なのか?」
 ぼくたちは自分の立場(たとえばキャピュレットの側からとか)からや、他人の言葉(モンタギューは悪だとか)によってしか世界を見ない。まさにそのことによって、両家の人々一人ひとりが若い二人の破滅を招いたのだが、「無名人」はそのような立場の埒外に置かれた者であり、若い二人はそんな立場や言葉をまだ持たなかったために、世界の真実を見える者でありえたわけだ。
 あまり意識されないだろうが、この作品は、近未来のいつかという時代に設定されている。現在の人類とは器官の働きが少し違っているようで、この作品の一つのポイントである、身体のある部分(額や臀部)を密着させることでコミュニケーションを図るところなど、とても印象的だ。音声言語によらないことは、ダンスというジャンルの一応の約束事だが、この作品ではそれを越えて、それが進化だか退化だかは知らないが、新たに大切なコミュニケーションの方法を獲得している。

シディ・ラルビ・シェルカウイ Sidi Larbi Cherkaoui 1976~。ベルギー、アンウェルペン出身の振付家・演出家・ダンサー。アクラム・カーンとのデュオ作品『Zero Degrees』(2005)、少林寺の僧侶を起用した『SUTRA』、森山未來出演の『テ ヅカ TeZukA』(2012)、『プルートゥ PLUTO』(2015)など。ベルギー王立 ロイヤル・フランダース・バレエ団芸術監督。Webマガジン「シアターアーツ」にインタビュー掲載。http://theatrearts.aict-iatc.jp/201808/5559/

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左:斉藤綾子(ロミオ)、右:池田由希子(ジュリエット)

□地を這うジュリエット

 若い二人は、何も属性を持たなかったことで、人生を駆け抜け、来世に輝く速度を持ちえた。特に前半のジュリエットは、子どもだ。キャピュレットでもなければ、女ですらない。寝起きの悪い彼女を乳母(藤原美加)たちが起こす場面など、両手両足を持ち上げられ、やっと起きたと思ったら乳母にべたべたと甘えるといったありさまで、言葉を持たない人たちの楽しく微笑ましいひとときが静かに展開している。この後の乳母のソロ、乳母とジュリエットのデュエットがことのほか美しく、この人たちは音声言語は持たないが、ダンスという身体言語を具えるという進化を果たしたのだということに気づく。そんなジュリエットだが、両親からパリス(山口章)を紹介された後の床を多用したソロは、見違えるようにしっとりとして、異性の存在を意識した後の少女になっているのがみごとだ。
 ロミオを知る前のジュリエットが、親によって結婚の対象にさせられてしまうパリスという(別にパリスでなくても誰でもいいが)異性の存在を認識したことで、女性としてのステップを一段階上がっていたことが、ここではっきりと確認できた。これはおそらく、ダンスであることのアドヴァンテージであり、池田の表現力の賜物だっただろう。誰かが変容したことは、言語によるよりも、相槌とか、振り向く様とか視線の揺らぎとか、いわゆる物腰とか佇まいとかいった気配のようなもので感じられるものではないか。速度でもなければ、高さでもない曖昧なもの。床に這い、水平に動くことが、少女の頃の垂直なジャンプと対照的だ。
 もちろんこの変化のきっかけは、親からパリスを許婚者として紹介されるという出来事にある。ここでの出来事は、もちろんパリスの登場、それに伴う両親のしぐさといったマイム的な身体表現による部分もあるが、大きくは、既に観客が知っているという前提にある。これまでサイトウは泉鏡花、福永武彦、カズオ・イシグロなど、様々な小説作品をモチーフとした作品を創ってきたが、今回『ロミオとジュリエット』が違ったのは、この点だ。誰もが知っている(はず)。何も言わなくても、二人が十代半ばであり、最後はすれ違いの死を迎えることになると、わかっている。だからこそ展開できる美しさがある。ジュリエットがロミオと出会う以前にすでに急激に変容しつつあったことを示すこのダンスシーンは、悲劇への第一歩ではあるが、その後のジュリエットの疾走の速度を用意していたようで、胸を打つ。

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左:池田由希子(ジュリエット)、右:パリス(山口章)

□ロミオの暴走

 一方ロミオは、ジュリエットに入れ替わって、有名な1968年版映画の主題歌(作曲:ニーノ・ロータ)に乗ってソロを踊る。長髪ではないが短髪でもなく、青い上下でパンツは膝まで、少年の出で立ちではあるが、一見したところ街の有力者のご子息には見えない。四つん這いになったり、両手を扇風機のように遠心力で回したり、両の拳をクラッカーボールのようにはじいたりと、特徴的な動きを見せるが、いずれも何ごとかを明示するものではない。まだ何者でもない少年が、ただ世界と戯れているような幼さ、純粋さを湛えている。
 観客は斉藤が本当は女性であってロミオという男性を「演じて」いることを知っている。もちろん、ロミオは実は女だった!という設定ではない。15歳というオリジナルの設定を生かし、少しそれよりも幼く、あるいは純粋さを強調した設定とすることで、サイトウ・ロミオが獲得したもの、それは無垢ゆえの暴走だ。
 舞踏会の場面、二人の出会いは衝撃的だった。いやその前に、パリスがノーブルで、大人らしく、品格ある人物だったことがよかった。しばしばパリスはコミカルに描かれるが、それではジュリエットがロミオに直行することの意味が半減してしまう。パリス(のダンス)を見るジュリエットは、パリスの大人ぶり、男ぶりを恐れているようだった。パリスを演じた山口は、メンバーの中では長い経歴を持ち、長身で品格のあるバレエダンサーであるが、その特徴を生かし、魅力をいかんなく発揮した。キャピュレット家の事情やジュリエットの思いなど知らぬふりで、マイペースでやや尊大にも見えるような役作りが的確で、ジュリエットの恐れや、対照的なロミオの若さを浮き彫りにした。
 その直後に、二人はお互いを発見することになる。大人たちが警戒したり、威嚇したりして二人を引き離そうとする中、二人はただただ幸せそうに笑って指を絡ませている。ここで二人は額を寄せ合う。この動作が、決定的で究極的なコミュニケーションであることがわかる。この動作はこの後、バルコニーの場面の翌日ジュリエットが乳母にロミオの結婚の意思を確認しに行かせる場面、二人と神父が額を寄せ合う結婚式の場面と、重要な場面で何度も繰り返される。先にも述べたが、この作品が音声言語を持たないことの必然が、これによってスッと腑に落ちる。しかし、誰もが額を合わせているわけではない。一定以上のレベルに達した関係において、おそらく言語に拠るよりも、全人的なコミュニケーションが可能になったのだろう。その結果、二人はお互いの全存在を共有するほどの合一感を得ていただろう。
 ロミオが恋する思いに突き進むことも、親友マーキューシオを殺され憤怒の奴隷となってティボルトを刺殺することも、同じ無垢ゆえの暴走が招いてしまったことだ。結果の良し悪しは、いかんともしがたい。ロミオの第一の喪失は、腕の中でマーキューシオが息絶えたことだ。マーキューシオの刺されてから絶命するまでの長い時間の中で、バレエ版同様のコミカルな表情と共に、観客は末原のダンスのただならぬ表現力と技術を見せつけられる。瀕死と言っても白鳥とは全く異なり、一直線に死に向かっていくのではなく、おどけ、笑い、痛がり、反攻し、倒れ、息絶える。その激しい表情の変化、身体の様子の変化の表現が、バレエダンサーらしい様式的な美しさと、鋭い現実感の両端を行き来し、非常にみごとだった。
 その後、ロミオは膝をバネにして立ち上がり、遮二無二ティボルトに向かっていく。強く大きなティボルトに、滅多突きで向かっていくロミオを支配している感情は、怒りとも悲しみともつかず、それがティボルトに向かっているのか自分自身に向かっているのかさえ定かではない。

映画「ロミオとジュリエット」

製作:1968年 イギリス/イタリア

監督:フランコ・ゼフィレッリ

音楽:ニーノ・ロータ

 

ジュリエット:オリヴィア・ハッセー

​ロミオ:レナード・ホワイティング

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左:池田由希子(ジュリエット)右:斉藤綾子(ロミオ)

□暴走の終わり

 さまざまなことがひと塊になってロミオに襲いかかってくる。とどめは、ベンヴォーリオ(佐藤惟)がもたらした、ジュリエット自害の報だ。ここで佐藤は、斉藤に額をつけるのではなく、右手から動き始める大きなジェスチャーで何ごとか悲劇の発生を知らせる。一連のダイナミックな動きは、ロミオの心の激動を導出し同調、増幅するような深い激しさがある。嘆き狂うロミオを後ろから抱きとめる姿は、せつない。
 マーキューシオを失い、ジュリエットと別れ、故郷ヴェローナを後にし、ジュリエットを失ったロミオは、墓地のヨギボーの山の中からジュリエットを納めた布袋を引きずり出し、顔をなで、額をつけ、抱きしめる。既に生命を失った(はずの)者とも額をつけてコミュニケーションするのかと驚き、ジュリエットは仮死状態なのだから、額をつければ死んでいないことがわかるのではないかと訝しくも思ったが、そこで何らかの交感があってもなくても、ロミオにとっては悲しみの理由でしかなかっただろう。その後のロミオは、人が体現できる激しさとはこのようなものかと思うような、身体の筋肉を一切緩めず、意志的な速度でしか動いていないような劇的なものだった。
 失えるものはすべて失ってしまったようなロミオは、その喪失によって決定的な激しさを獲得する。ここに至って、ロミオは暴走のような疾走をやめ、成熟に向かったのだ、ほんのつかの間。
 

上念省三(じょうねんしょうぞう) 1959年生まれ。ダンスを中心とした舞台芸術評論。劇団態変との協働で「さなぎダンス」、西宮市の後援を得て音楽公演「ミジカムジカ」を企画制作。過去に大阪・阿倍野で『ダンスの時間』に携わる。AICT関西支部事務局長。西宮市文化振興課アドバイザー。

『泥人魚』――停止と再生の薄もやの中から
―― Bunkamuraシアタコクーン『泥人魚』
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新井 静

撮影:細野晋司
提供:Bunkamura (この項すべて)

 唐十郎『泥人魚』の初演は2003年4月。そこから実に18年の時間を経て、2021年12月6日にシアターコクーンでの上演が幕を開けた。唐組による上演から、形を変えての演出を金守珍が行った。
 物語はブリキ屋で働く青年、蛍一(磯村勇斗)と、「ヒトか魚かわからぬ女」と呼ばれる女、やすみ(宮沢りえ)を中心として展開されていく。干拓によって故郷である漁港を追われた蛍一はブリキ屋で暮らしている。昼はぼけているが、夜には詩人となる店主静雄(風間杜夫)と共に都会の片隅で彼が暮らす一方、故郷は未だ、干拓事業の是非を争っていた。湾を分断する「ギロチン堤防」によって内側の調整池の水が濁り、自然が壊れ始めていた。そんな中、ブリキ屋を訪ねてくるのは同郷の男、しらない二郎(岡田義徳)だ。二郎は湾の利権を狙う月影小夜子(愛希れいか)の命を受け、さぐり屋をやっている。兄のように慕っていた二郎の裏切りにショックを受ける蛍一のもとへ、彼を探してやすみがやってくる。かつて有明の海の沖で溺れかけていたところを、漁師のガンさんに救われたやすみは、ある約束を果たすために来たのだという。そうしてそっと彼女は自分の腿にある、鱗を蛍一に見せる。人の作った海である貯水池を泳ぎ、人魚になってみせるというのだ。「やすみ」、魚と同じ名前を持つ女。これは海を救う物語か、あるいは人魚という呪縛から女を引き剝がそうとする物語だったのか――。

 この作品の中で特徴的なのは、諫早湾とブリキ屋という二つの場所が登場することである。実際にあった諫早湾の干拓を取材したこの物語では、干拓による有明の海の生態系や環境の変化を登場人物や場面に重ね合わせるようにして形作られている。
 舞台冒頭でも登場するように、有明湾では干潮時に大規模な干潟が現れる。蛍一とやすみは干潟を滑る「潟スキー」に乗って登場する。柴田恵司 『潟スキーと潟漁 有明海から東南アジアまで』(東南アジア漁船研究会(2000))にも記載のあるように、かつての有明湾でのムツゴロウ漁ではそれが使われていた。本公演ではこのシーンの背景に海と、そして暮れていく日が映し出される。広大な干潟を滑っていく二人の後ろでゆっくりと日は沈む。望郷を意図したシーンだろう。しかし次のシーン、一人残った蛍一は手に持っていたろうそくを吹き消してしまう。闇が訪れ、干潟も水面も見えなくなる。
 そして彼は故郷を手放し、ブリキ屋へと逃げ込む。故郷から遠く離れた都会。また蛍一がブリキの鳴る音を恐れているにもかかわらずそこに逃げ込むのは、自らから最も遠い場所に向かった結果だろう。ブリキ屋という場所はそうして、故郷からの地理的な隔たり、自身からの隔たりという多重の隔たりを示すが、さらに言うならば、この場所には時間の隔たりも現れてくる。
 時間の隔たりを示すのは店主、静雄である。ぼけている時とそうでないときがまだらに出る「まだらボケ」の彼にとって、時間は曖昧なものだが、しかし夜、闇とともに訪れるその時間によって彼は詩人へと変貌する。静雄が彼自身でいられる時間はごく短い。まだらボケの間を縫って、彼は静雄として時を過ごすのである。夜になると現れるのは「伊藤静雄」だ。諫早出身の詩人・伊東静雄をもじったその名前をもつ人物は、静雄であって静雄でない。自分自身でなくなった身体をもって、静雄の時間は停止する。

『泥人魚』

 

2021/12/6~12/29

Bunkamuraシアターコクーン(渋谷区)

 

作:唐十郎 

演出:金守珍
出演 宮沢りえ、磯村勇斗、愛希れいか、岡田義徳、大鶴美仁音、渡会久美子、広島 光、島本和人、八代定治、
宮原奨伍、板倉武志、奈良原大泰、キンタカオ、趙 博、石井愃一、金 守珍、六平直政、風間杜夫

新井静(あらい・しづか)

大阪大学大学院文学研究科博士後期課程在籍中。
専門は1970年以降の日本のアングラ演劇(唐十郎)を中心とした同時代の表象文化。

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 唐作品では、このような時間の二重性が特徴的にあらわれる。初期作品、特に『煉夢術』(1965)で、唐は時間の停止をテーマとして置き、そしてそれを動かそうとする登場人物を配置することによって時間の二重性を示した。この時間の構図は『泥人魚』においても引き継がれ、静雄はそれを象徴する人物であると考えられるが、しかし特徴的なのが、彼が「まだらボケ」であるという点だ。ぼけている間、静雄は薄もやの中にいる。時間の流れは一方向に進んでいくから、彼が薄もやの中で何かを見ていようが見まいが関係なく、彼を時間の先へと進ませていく。だが彼が「伊藤静雄」であるとき、時計は止まる。すなわちこの作品の静雄という男が時間の二重性そのものを表すと考えられる。
 静雄が、故郷、すなわち過去から逃れてきた蛍一と出会うことはなにを示すのか。ブリキ屋に逃げ込んだことにより、蛍一は一時の停止をここで得ることになり、また同時に夜になるのを告げることで静雄の時間の停止を手伝う役割を担う。そして。過去から逃げてきた蛍一のいるブリキ屋へ、故郷を救おうとする少女――すなわち過去と密接に結びついた存在であるやすみがやってくることによって時は再び動き出すことになる。静雄と共にいるとき、蛍一は過去へと回帰することもなく、未来へと進むこともなかった。静雄と共に薄靄のなか、停止の時間のあわいにいたままだったのだ。
 唐作品を観るとき、常に頭には「どうして今」ということがよぎる。それは唐作品が持つその時々の時代を反映するドキュメンタリー性がなすものであるが、また同時に、再演される際にも、今このときに上演する意味を考えさせられる。この作品の提示する「停止」とそしてそこから抜け出そうとする時の動きは、コロナ禍から再び立ち上がろうとする今において上演されるべきものであったと思う。まだ先の見えない薄もやの中に入るが、それでも時は流れていくのである。

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ポップでカラフルな世界が描き出す1950年代の闇
―― 『Home,I'm Darling~愛しのマイホーム~』『プロミセス、プロミセス』

松本俊樹

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写真提供/東宝演劇部(この項すべて)

 誰しも「昔はよかった」とふと思ってしまったことがあるのではないだろうか。ノスタルジーの魅力には抗いがたい。しかし、そのノスタルジーへの憧れに囚われ、それが目的意識になってしまった場合、人はどうなるのか。そんな状況が描かれたのがイギリスの劇作家ローラ・ウェイドの戯曲『Home,I'm Darling』である。本国イギリスでは2018年に初演されたこの作品の日本初演が『Home,I'm Darling~愛しのマイホーム~』として東宝主催で昨年上演、関西では11月12日~14日に兵庫県立芸術文化センターで、同17日に枚方市総合文化芸術センターで上演された。演出は白井晃。
 専業主婦のジュディ(鈴木京香)は夫ジョニー(高橋克実)と共に愛する「1950年代風」の生活を満喫している。母のシルビア(銀粉蝶)からはせっかく女性の地位が向上した時代に生きているのになぜわざわざ1950年代の真似事をするのかと批判されながらも、同じ趣味を有するフラン(青木さやか)、マーカス(袴田吉彦)夫妻という友人にも恵まれている。しかし、ジュディは元々働いており、専業主婦になる契機は失職したことであった。専業主婦として彼女の理想の1950年代らしい「よりよい生活」を目指すうちに家計は苦しくなり、また、ジョニーの出世のために上司アレックス(江口のりこ)を自宅で接待する作戦も功を奏さず、更には住宅ローンの返済が引き落とせなかったことまで明らかになる。ジュディが夫と共に楽しむ憧れの1950年代風の丁寧な生活が砂上の楼閣であることが次々と暴かれるのだ。二人の家の台所にある冷蔵庫は1950年代のアンティークのものだが、既に壊れており、母シルビアからはなぜ買い換えないのかと詰(なじ)られる。壊れて使えない冷蔵庫はこの現実味がなく脆い生活の象徴だろう。また、この冷蔵庫だけでなくアンティークのインテリアのほとんどをネットオークションで購入しており(ジュディはスマートホンを手放したものの、ネットがないと古いインテリアを購入できないのでPCだけは手放せない)、1950年代「風」の生活が現代のデバイスなしでは維持できない矛盾も示唆される。

Home,I'mDarling~愛しのマイホーム~

作 ローラ・ウェイド

演出 白井晃
翻訳 浦辺千鶴

美術 松井るみ

振付 原田薫

ジュディ: 鈴木京香 / ジョニー: 高橋克実 / アレックス: 江口のりこ / フラン: 青木さやか / マーカス: 袴田吉彦 / シルヴィア: 銀粉蝶

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 また、この作品は全篇がジュディとジョニーの自宅で展開するが、常に「オフィス」の影が見え隠れする。ジョニーの仕事の話は事あるごとに家に持ち込まれるし、自宅にやってきた上司アレックスとジョニーとの会話からは日頃の二人の関係性も明らかになる。女性のアレックスが男性のジョニーの上司になっている状況は母シルビアが語る女性の地位が向上した時代の象徴であろう。しかし、アレックスの「成功」を以て女性の地位向上と見るのは時期尚早だ(そもそもアレックス自身についても、ここまで来るのにどれだけの辛酸があったかは作中で示されていない)。二幕五場では友人マーカスが性的なハラスメント行為で訴えられ、休職させられる。マーカスはジュディの家にやって来て自身が潔白であることを訴え、ジュディも友人として、そして50年代の価値観を内面化し始めているため彼を擁護し、また訴えた女性社員の方を詰っていたが、マーカスが少しずつジュディの身体に触れようとするとそれを拒絶する。五場は拒絶する場面で終わっており、その後ジュディとマーカスがどうしたかはわからないものの、恐らくジュディもマーカスがオフィスで何をしていたかを悟ったことだろう。訴えることが可能になったという点では改善したと言えるが、オフィスにおける性的なハラスメントはまだ過去のものにはなっていないのだ。 ジュディは元々1950年代の生活への憧れを抱いていたものの、その実践に本格的にのめり込むようになるのは自身が職場で必要とされていないと突き付けられてからである。オフィスでの自分の居場所がないとわかったジュディは家庭を居心地のいい場所に変えようと躍起になる。オフィスから「ドロップアウト」した結果、女性を家庭に押し込める時代を理想と崇め、反動的に「回帰」しようとする姿は母シルビアでなくてもグロテスクに映る。ジュディは1950年代には生まれておらず、全く見ず知らずの虚像に憧れているに過ぎないのだ。

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 『Home,I'm Darling』では現代のオフィスの状況が伝聞形式で描写されていた一方、ジュディが憧れる1950年代のオフィスの状況が描かれた作品が同時期に関西で上演されていた。宝塚宙組が上演したミュージカル『プロミセス、プロミセス』(11月13日~18日、梅田芸術劇場シアター・ドラマシティ)である。ニール・サイモンの脚本、バート・バカラックの作曲によるこのミュージカルは1968年に初演された作品だが、1960年公開のビリー・ワイルダーによる映画『アパートの鍵貸します』を原作としたもので、設定や展開がほぼ同一であることから1950年代後半の状況を描いたものと見て差し支えないだろう。演出は原田諒。

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プロミセス、プロミセス

作:ニール・サイモン

翻訳・演出    原田諒
 

チャック・バクスター/芹香 斗亜
フラン・クーベリック/天彩 峰里

J・D・シェルドレイク/和希 そら

 保険会社の冴えないサラリーマン、チャック・バクスター(芹香斗亜)は愛人との逢瀬の場として社内の重役らに自身のアパートの部屋を貸したことで出世への道を歩み始めるが、人事部長のシェルドレイク(和希そら)に部屋を貸したことで、自身の片思いの相手の食堂係のフラン(天彩峰里)がシェルドレイクの愛人であることを知ってしまう。フランはシェルドレイクに妻子があることを知りつつも、彼の「離婚する」という言葉を信じて待っていたが、シェルドレイクがこれまでも同じ言葉を弄して職場の女性たちで遊んでいたことを知らされ、クリスマスの夜に逢瀬の場だったチャックの部屋で睡眠薬自殺を図る。チャックと隣室に住む医師ドレファス(輝月ゆうま)が共に介抱することでフランは一命を取り止めるが、シェルドレイクの不実な態度に反感を持ったチャックは彼との取引と引き換えだった出世を捨て、チャックの誠実な対応に心動かされたフランと共に生きる道を選ぶ。『Home,I'm Darling』では「家庭」を中心に描かれ、そこに「オフィス」が要所要所で入り込んでいたが、一人暮らしのチャックには「家庭」というものが存在しないし、場所としての「家」さえも上司らの愛人との逢瀬の場として使われる。『プロミセス、プロミセス』はあくまでオフィスの物語なのだ。男性はオフィスを最優先に行動し、あまり仕事熱心ではなさそうなチャックでさえ上司に気を遣って彼らの退社後に職場を離れるようにしており、また重役らに逢瀬の場を提供することで出世を目論む。男の生涯の目標とするロールモデルは仕事での出世と決まっていた時代である。
 作中で描かれる、彼らの活動の場であるオフィスの様子は現代人から見ると違和感も多い。男性と女性の間の分業(女性はタイピストや食堂スタッフ、エレベーターガール、秘書くらいしかいない)がはっきりしており、男性重役(重役には男性しかいない)は女性社員らを愛人として玩ぶ。中でも人事部長のシェルドレイクはこれまでも複数の女性社員を愛人としてきており、新しい愛人ができればかつての愛人をそのまま秘書にして口封じするなど遣り口が汚い。主人公チャックの誠実さを強調する為に誇張されている可能性はあるが、『Home,I'm Darling』で母シルビアが批判していた女性の地位が向上する以前の1950年代のオフィスの光景を表現していると言えよう。同時に『Home,I'm Darling』で描かれたマーカスのハラスメント行為は、オフィスにおける女性の立場の弱さが現代でも過去のものになっていないことも示唆している。
 シェルドレイクはオフィスで不倫する一方、「善き家庭人」でもある。チャックの部屋でフランと関係を持った後も、きちんと自宅に帰ってクリスマスの「家族サービス」を行うのだ。フランが自殺を図ったとの電話をチャックから受ける際のシェルドレイクは妻や子供たちに囲まれる、1950年代のアメリカのホームドラマに見られるような「善良な家庭人」そのものである。『Home,I'm Darling』のシルビアは娘ジュディに戦後の混乱や貧困を引きずったイギリスの1950年代が如何に悲惨だったかを話し、ジュディが住んでいる「ギンガムチェックのパラダイス」は空想の産物でしかないと語る。ここで批判されるジュディの理想郷、「ギンガムチェックのパラダイス」はジョン・オズボーンの『怒りをこめてふり返れ』に描かれたような、そして母シルビアも「怒りをこめて振り返」るような実際のイギリスの1950年代ではなく、1950年代のアメリカのテレビドラマや映画に影響を受けていることは間違いない(そのことは英国版の宣材動画(https://youtu.be/rQJH8QZZFds)からも明らかだ)。しかし、シェルドレイクはその後秘書として雇っていた過去の愛人から妻に不倫の事実を知らされ離婚の憂き目にあう。1950年代アメリカの「理想」の家庭は空虚なものであり、脆くも崩れ去る。ジュディが理想像と崇めていた、主婦が居心地の良い家庭を作り、よく働きかつ良き家庭人でもある夫、子供たちと共に幸せに過ごすという1950年代アメリカの理想も虚像でしかなかったのだ。
 奇しくも、両作とも舞台装置の担当は松井るみであった。松井は『Home,I'm Darling』では英国のセミデタッチドハウスをイメージしたリアリズム的な装置で対応し、『プロミセス、プロミセス』では盆で回転する装置がアパートの部屋からオフィス、中華レストランまでを鮮やかに表現した。どちらも私たちが1950年代(とりわけアメリカの)を想起した際にイメージする、ポップでカラフルなものであったが、その舞台装置の中で描かれる物語は1950年代の闇、そして当時の闇が温存されたままになっている、または新たに発生した現代社会の闇であった。1950年代は憧れや理想にはなり得ないし、今の私たちの生活もそれほど「進歩」したわけでもない。家庭や職場、それらを包括する社会全体をより良くするために、何かの目標を持てないままにもがき続けなければならない。『Home,I'm Darling』のジュディとジョニーは無理に愛好するものを捨てるわけでもなく、また1950年代の生活習慣(夫婦の役割分担など)を強いることもなく、二人が考える最適の道を考えながら選んでいくことになる(ジュディが終幕で1950年代風のオフィス用スーツを着て出勤するのはその象徴だろう)。『プロミセス、プロミセス』のチャックも仕事での出世というロールモデルをかなぐり捨て、愛する女性と共に生きる道を選ぶ。憧れやロールモデルに縛られることなく、自身の主体的な道を歩み始めた主人公らに賛辞を送りつつ、自分自身の過去、そして未来への歩みについても省みたくなった両作だった。

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出演 ‏ : ‎ ジャック・レモン, シャーリー・マクレーン, フレッド・マクマレイ

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United Artists Records/

Edwin H. Morris & Co., Inc. (January 1, 1968)

松本俊樹(まつもと・としき)

大阪大学演劇学研究室コースアシスタント、大阪音楽大学非常勤講師。専門は1920~30年代の宝塚少女歌劇や宝塚国民座を中心とする近代日本演劇。

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