
▼つながることは祈ることとつながっているのだろう▼上念省三
やなぎみわ『大姥百合』、淡水『できるだけ遅く撮ってみる』、ハイドロブラスト『ケアと演技』、
富岡櫂『儚氷』、サイトウマコト『ロミオ&ジュリエット』
▼「世界のいのち」を問いかける、未来へ向かう能楽▲瀧尻浩士
能楽協会「未来につなぐ、能楽の世界」
▼憐れみを乞うは人間か自然か▲齋明寺蘭
▼橙の空に、あわいに、踊る▲齋明寺蘭
三崎彩プロデュース『Tangerine Sky vol.2』
▼劇場というタイムループ装置▲小山沙恵
つながることは祈ることとつながっているのだろう▼上念省三
■ 精と僧―やなぎみわ『大姥百合』

ポール上:MECAV、右:大宮大奨
踊念仏を広めた一遍上人は、日本の舞踊史にとって重要な位置を占めているわけだが、彼が神戸で没したとは知らなかった。極度の疲労と栄養失調に見舞われていたという。言葉では凄絶だが、実際には穏やかな入寂だったのだろうか。
9月28日の六甲山新池は、冷たい雨に降られていた。風も吹き、冷たい霧が立ち昇り(舞台のスモークかと見間違えたのだが)、「神戸六甲ミーツ・アート 2025 beyond」のプログラム、やなぎみわの野外劇『大姥百合(オオウバユリ)』の実施が危ぶまれていた。男性ダンサー、女性のポールダンサー、言葉を発する男、打楽器奏者、そして念仏衆や多くの衆生による、総合的な野外劇が展開されるはずだ。中断もありうると予告されながら、ビニール合羽やフード付きパーカーに身をすくめ、あるいは傘を握りしめ、池の中央に張り出された川俣正の木製の立体作品「六甲の浮橋とテラスExtend 沈下橋2025」上で展開される、旅の僧一遍(大宮大奨、ダンサー)と大姥百合の精(MECAV、ポールダンサー)との物語に見入ったのだった。
開場のずいぶん前に展示作品を見に行った時に、やなぎさんたちは、「雨が降ったら、ポールが滑るから、ポールダンスはできない。ポールに登らずにできる見せ方を工夫してもらわなければ」と言っていた。急に水位が上がって浮橋を歩くことができなくなっても作品は成立しないだろう。そんなスリリングな時間を経て、遠目にMECAVは、さりげなくポールの水気をふき取りながら、果敢にもポールダンスを完遂した。大宮や人々は、くるぶしの上まで水に漬かりながら、じゃぶじゃぶと歩を進め、踊りを続けた。
この作品の凄味は、まずこの舞台空間を包む山、池、雨、風、という自然の風景に係っていた。自然はただ平面なだけでなく、光や風や雨を呼び、温度を上げ下げし、時に嵐ともなる。それは作品に予期できない光と影を、この日は特に影を与えた。
作品は大まかにいうと、能の形式を借りた単純な物語だ。旅の僧が辿り着いた地に、一人の老婆がいた。彼女は実は大姥百合の精。その来歴をラップ調でマシンガンのように語るのが語部の志人。途中から時宗踊躍念仏僧が加わって念仏を唱え、音遊びの会(主に若い世代の知的障がい者による音楽集団)のメンバーやボランタリーに参加した善男善女が加わり、人々の平穏と安寧、大姥百合の成仏を願って灯りが落ちる。
圧倒的でなかったものがなかった。志人の声は山の空気を突き抜けるように鋭く、言葉は池からこんこんと湧き出て岸からあふれ出す泉の水のようだった。大宮の姿からは、東日本大震災の時に被災地の瓦礫を踏みしめて祈り歩く僧の写真を思い浮かべた。空気と池の水の冷たさ、時折激しく降る雨に、それが重なったのだろう。そして、ぼくの中でにわかにこの作品が祈りとして形を取り始めた。
すると、老婆がするすると左方の島に移動し、法衣のような上を脱いで、ポールダンサーとしての露出度の高い衣裳の姿になった。これは世俗な男の目で見ればセクシーな姿ではあるのだが、その妄念は一瞬ののちに平等院の雲中菩薩か法隆寺の飛天かという姿となってかき消された。例えばポールに足をかけて片手でバランスをとって斜めに静止する姿は、まさに飛遊する天女の姿絵のようだったし、ポールをくるくると回ると、天衣(てんね)がひらひらと舞い、アクセサリーがキラキラと光り、太ももや背中が水滴に光り、冷水なのに「滑洗凝脂」(白居易「長恨歌」)する、楊貴妃のようでありながらこの世のものではない高貴な美しさが見えた。
それが、オオウバユリという花、その精だったのだ。2m近くまで伸び、一本に10~20個の黄緑色ないし緑白色の花をつけるという。その姿はやなぎみわの立体作品として、2本はFRPで池に生え、1本はブロンズでひっそりと池の畔に植わっており、そしてその精はMECAVとなっていた。
花はそのように姿を変えることができるが、人は一途に念仏を唱え、あるいは言葉を連ね、太鼓を叩き、と、それを続けることで何かにつながることを信じている。大宮の動きは、もちろん洗練されて美しく烈しく鋭いものではあったが、ここでは大姥百合の精との対照として、水をかきわけるように木の廊下を踏みしめて、ある種の愚直さを秘めたものだったように思う。人は精とは違って、一歩ずつ歩かなければ進むことも退くこともできない。
ここに展開された精と僧のコントラストは、垂直・昇華と水平・歩行という運動のそれであり、それは来世と現世であり、祈る主体とその対象または媒介者であり、飛翔または浮遊と遊行の懸隔だった。その懸隔を、動く大宮の身体と、絶え間なく発せられる志人の音声(おんじょう)が、只管(ひたすら)な祈りとなって立ち昇ることによって、うめようとしているようだった。ふと思い出した東日本大震災の瓦礫を踏みしめる僧も、ここで一遍上人となっている大宮も、念仏衆も、音遊びの会の面々も、観客も、地に足をつけていることによって、ただ飛翔のために祈ることができており、実際にぼくたちはMECAVの無事を祈っていたわけだし、百合の精は地に足をつけないことで、祈りを受ける存在であり続けているように思われた。
振り返れば、一瞬のような1時間だった。それは、この作品の時間が一つの祈りに収斂されているからであり、一本の花のたましいだったからだろう。すごいものを観た、と思った。

上念省三(じょうねん・しょうぞう)
ダンスを中心とした舞台芸術評論。西宮市文化スポーツ課アドバイザー。最近では、態変の「イマージュ」2025冬(93号)に「永遠の<脳(ブレイン)>のありか―国際芸術祭「あいち2025」における『BRAIN』」を寄稿。神戸在住。

一遍の大宮大奨と念仏僧たち
■ 関係を立ち昇らせる―淡水『できるだけ遅く撮ってみる』

photo by koichiro kojima
何かと何かをつなぐ橋が、川俣正によって新池に渡され、そこで彼此の通い路が作られた。その前日、南海電車の高架下では、敷居レールのようなチープな部材を使って、誰かと誰かがつながろうとしていたことに、ぼくたちはうろうろと彷徨いながら立ち会っていた。淡水が『できるだけ遅く撮ってみる』と題してそこで展開したのは、高架下の資材置き場のような空間をフルに使って、パフォーマーと観客の境い目のない、誰かと誰かが関係を結ぶことの困難と喜びと美しさを実現する、不思議な時空間だった。
音と写真と照明と装置とパフォーマーたちによって、武骨だがなんとも趣のある資材置き場が、見られることを要請する息づく空間となった。パフォーマーは例えばレールの両端を持って傾斜を作り、水を流してみたり、LEDテープを光らせたりして、誰かと誰かの間に有徴の関係性を作ろうとした。それは固定的で継続的なものではなく、すぐに撤回されるものだったが、残像として記憶に残るものだった。テンポラリーな関係性は、交換可能で自由で、軽やかなのだがどこか物悲しい。koichiro kojimaの写真が、紙でばらまかれていたり、映像で流れていくのも、それらが過ぎ去ってしまったもののように見えて、さびしい気持ちになる。
目の前で繰り広げられる実演芸術というものは、いつも過ぎ去ってゆくものとしてしか存在できない。終わってしまえば舞台上に何も残さない能楽は、その最たるものだろうが、残骸のようなものが残ってしまうのも、つらいと言えないだろうか。淡水のメンバーは、それこそ淡々と、与えられた作業であるかのように様々な物を動かしたり傾けたり、脚立に登ったり走ったりしているが、関係を築く確定された相手をそこで探しているようには思えない。ここで築かれる関係は、任意であり、臨時的でその場限りのものであり、喜びも悲しみも伴わないように思える。それは、はたして、喜ぶべきことだっただろうか。そう問うことさえ憚られるのだが。


photo by koichiro kojima
淡水の代表の菊池航は、あまり普通の劇場(ブラックボックスだったりプロセニアムだったり)では作品を発表しない。どこで見つけてどうやって交渉しているのか知らないが、使われていたりいなかったりする倉庫や、雑居ビルの会議室のようなフリースペース、市場跡といった、およそ舞台芸術の現場とは思えないような、都市や産業の記憶や残像が重層しているような場所を探してきては、手持ちのライトや普段使いの物を使ってパフォーマティブな現場にしてしまう。そこではパフォーマーである彼らが何ごとかの働きかけを場所に対して行っているのはもちろんだが、探し当てられた場所自身も、彼らの身体が生み出す振動や呼吸する息の空気の動きに対して、応答しているように見えてしまう。比喩的にではなく、彼らの動く空気の顫えや、灯りの揺らぎのせいで、振動するように感じられる。
それは一つの都市論として、一つの廃墟のような建物から、そこでかつてあるいは今も営まれていた/いる人々の存在を、鮮やかに立ち昇らせる。と同時に、それらが今は存在しないこと/いつか存在しなくなることを、陰画のように炙り出してしまう。
都市論が廃墟論であるのは、それが形成された途端に滅亡を内包し、進行しているからで、基本的には生命とその死と同じことだ。人間と同じく、様々なメンテナンスを繰り返しながら、都市もその命脈を保とうとするが、自ずと限界はある。淡水が選択する場所は、その限界を鮮やかに見せ、そこで彼らが行為することは、実は場所の弔いと、願わくは(誰が願っているのかはさておき)それに続くかもしれない再生の儀式のようにも見える。大阪という街には、そんな弔いがよく似合う。
メンバーの中に、今井美帆、平山ゆず子と、複数「維新派」にいた者がいることは、その意味で象徴的だ。維新派の動きがそこに見られるわけではないが、その気配が仄かに継がれているようでもあり、翻ってその普遍性を証ししていたようにも思う。
■ 介護という関係の反転―ハイドロブラスト『ケアと演技』

竹中香子と太田信吾。竹中の両手の向こう側の赤いものが尿瓶のマント。撮影:江里口暁子
つながりとか関係とかの構築とか断念とか、他者との間でならそのようなことが可能でもあり、だからこそそこに祈りや願いや絶望があるのだろうが、肉親の場合は、どうなのだろう。ハイドロブラスト『ケアと演技』で竹中香子は、実父の介護と死の経験に基づき、それを介護施設でのアーティストインレジデンスという形で限定的に追体験して戯曲化、竹中自身と思われる人物を異性と認識しているだろう映画監督でメンバーの太田信吾に演じさせ、さらに上演に合わせて介護の実践者による対話やワークショップの場を設けるという、何重もの構造を組み立てることで、父娘という逃れられない関係に、介護(ケア)という観点から風穴を開けることだったのではないか。
何が開かれたかというと、自身が女性であることで父とは異性でありながら異性性を意識しない存在であること、女性であることの対照として男性の性と、再反転して自らの女性の性を意識することがあること、そしてそれを演じている男らしき人と、演じさせている女らしき人の分け目が定めにくい状態にあったことによって、性差というおそらく人間にとって結構重要な対立項が、そんな風穴によってぐずぐずになっていたということではなかったか。
舞台というかアクティングエリアにはピアノ(島崎智子)とパーカッション(服部将典)がスタンバイしていて、ちょっと丁寧な前説的な説明があって、太田がいわゆる演技を始めるのだが、その役柄がどういう人なのだか、性別とか、よくわからないまましばらく時間が進んでいく。一人称とかやさしい話し方とか物腰とか、数週間に名古屋で見た『最後の芸者たち リクリエーション版』(9月6・7日、愛知県芸術劇場小ホール)でも太田はそんな感じだったものだから、特に演技や役作りとしてそうであるのかわからないまま、性的な内容になって大根だか男根だか(わざと言い間違えているのか、それを医師役に転換したパーカッショニストの服部から再三指摘されている)を突っ込まれることの違和感という話題になって、それでも男でも女でも突っ込まれることはあるよななどと脳内で補足しながら聞いていたのだが、生理が重いという話になって、これで太田は女性だという設定になっているのだと、ようやくわかる。ぼくが鈍かったのかもしれないが、でもそれがわかったからと言って、落ち着くわけではなさそうだった。
何かの性であることや、ケアのこと、ケアの対象である父親のことが、性別の異なる他者によって演技されている。それは普通に考えれば違和感をもたらすはずだが、ふと「介護には演技が必要だよね」というありきたりというか、経験した人ならいつの間にか習得せざるを得ない知恵または便法が一般論として思い出されて収束してしまいそうになる。しかし、ここにはそのはるか延長上の何重もの演技とケアの転位がある。それがちょっと滑稽な形で表象されているのが、父親の使う尿瓶(しびん)が透明だから尿の色がはっきりと見えてしまうことが人間の尊厳としてどうかということから、尿瓶用のマントを作り、それをかぶせることで見えなくするというエピソードだ。
既に想像がついていると思うが、いわゆる汚物であるところの尿を見えなくすることが、現実にパーキンソン病にかかり年老いた父親への配慮であるとはいえ、それを見たくない自分自身への言い訳めいた隠蔽でもあったかもしれなくて、ケア(英語のケアには配慮という意味もある)の現場と当事者には、つねにそういう配慮と後ろめたさがついて回るのかもしれないなどと考えていた。


撮影:江里口暁子
終盤では、竹中が竹中自身として登場し、「父親想像讃歌」なるものを歌い、会場全体が施設のちょっとチープなカラオケ大会のような一体の場となる。この歌はちょっと感動的ないい歌なのだが、実際には「起こらなかった現実」を歌ったものだと、竹中がnote(一般社団法人ハイドロブラスト、10月19日付)で告白している。仮構された、あってほしかった現実だったのだ。
注意しなければならないのだが、竹中の竹中自身としての登場も、竹中が竹中を演じていたということになる。竹中は当日「演じ直す」という言葉でこの作品を説明していたが、役になりきるといった演技法とはちょっと違っていて、なりきるのでは自己が消滅してしまうが、役と自分が共存しているという状態を考えているらしい。彼女にとっての演技とは、そういう意味で、おそらくは自分自身(役)に対するケアであり、そんなケアが理想的だと言えるのだろう。
父親のケアの現場で、介護の人から「意識はなくてもコーヒーの香りはわかっているようですよ」というような言葉があったということが始めのほうで紹介される。帰りには観客に実際に父親が好きだったというブレンディのカフェオレのスティックが渡された。それだけでもとても柔らかな気持ちになったのは確かだが、観客一人ひとりの中には、ケアの経験上の甘やかさと苦みが交互に行き来し、誰か失った家族への思いがめぐったことだろう。ぼく自身も妻がハーゲンダッツのクリスピーサンドを食べていたこと、最期にモロゾフのプリンを口にしたことなど、思い出していた。現実と演劇というものが交錯する何重もの可能性についても、よくよく思い出したり想像したりして、味わうことができていたことだろう。
■ 儚さの現れ―富岡櫂『儚氷』

写真:Mex Wahab
「演じ直す」という言葉には、竹中の本意からは離れるかもしれないが、誰かの生や時をなぞり上書きすることでそれをなおし(fixとかmendとかhealとか)、共有することができるのではないかという希望がある。
富岡櫂が演出・振付を行なった『儚氷』(うすらい、と読めるらしい)というダンス公演では、数人の動きが、人の内側から絞り出されるものとして1時間余りの間、絶え間なく提示され、もつれからみあって濃密で強い緊張を持続していた。何らかの動きが続けられることで、誰かの動きや時間が癒されていくように思えたのは、なぜだったのだろう。
ぼくには終始強い死のイメージに覆われた作品のように思われ、ぼくが死ぬ時はこのような時間と空間であるだろうか、などと思った。そうありたいとかそれが理想だとかいうのとは少し違って、それを目の当たりにしているような。
シリアスなダンス作品の多くは、深刻で絶望的な世界を描いているように感じるように思うが、これは、それを通り越した向こう側の明るい世界で、そこにぼくがいてほしいと思えるような世界だった。悲しみには満ちているが、これは絶望的な世界ではなかった。おそらく、現実もそうであるか、そうであってほしい。
改めてチラシを見たりタイトルを読んだりすると、すっと腑に落ちるようだった。理屈っぽい説明になるが、タイトルの通り、氷は溶けてしまう儚いものだ。水になり、いつか蒸発して空気になる。でもそれは、なくなってゼロになるわけではないだろう。低い重心で何度も斃れるダンサーたちは、また起き上がる時に特に何という感情もなしに、ただまた別の生を生き直し、存在を始めているように思えた。繰り返しというと重みを帯びるように思うが、そうでもなく、淡々と、また。
チラシで描かれている、髪で顔を覆った女は、直接的には倉本たま子に当てられていた。長い髪を結わえたりほどいたり、前に集めて顔を覆ったり、古典的な女の変幻のようにも見えたし、幽霊のようでもあり、ファム・ファタール(運命の女)のようでもあった。そんな女の像を、倉本が青く冷たい情炎を秘めているかのように、魅力的に造形していたのには、驚いた。


倉本たま 子 写真:Mex Wahab
ダンスは(ダンスだけではないが)いつも、決定的に魅力的な一瞬を目にした瞬間に、過ぎ去ってしまっていて、見たのに見逃したという悔しさが残る。それも作品のコピー「命は雪の吐息 触れた瞬間、姿を消す」にある通り。倉本のありようには、そういう決定的な儚さがあったように思えた。
三崎彩、本間紗世、高橋佑紀、もちろん富岡櫂の、ダンサーとしての時空の造形力、感情を連続させる物語の構築力にも、ただただ目も心も奪われた。三崎や本間については、最近はダンサーとしてフルに魅力を見せつけられる機会が少ないように思っていたので、今回は堪能できた。2人とももちろん動きに鋭角の傾斜を持っているのだが、表情は意外に三崎が忘我的で、本間が意思的であるように見えた。あえてそのように見よう/見せようとしていたのかもしれないが、同質な表れが全く異なる地点から出発しているように(ここでは)思われ、非常にスリリングだった。
高橋と富岡は、一対の男性ダンサーとして、入りやすいコントラストを見せながら、共に目の前で何ものかが(女が)儚く消えていくことに堪えながら、抗いながら、絶望しながら、懸命であるように思われた。二人の踊りは、儚さへの抗いでもあったが、あきらめを経て、祈りに通じていくようにも思われた。彼らがその女が儚く溶けていく様子を目にしていたのだったら、その悲嘆からは、どのように救われることができるのだろうか。どうにかしてそれを防ぎ留めることはできなかったものか、という悔恨に苛まれたのではないだろうか。その後、彼らは只管祈り念じることができるだろうか。『大姥百合』の僧を観た時に、少し彼らの姿を思い出した。
踊るということが、最終的にどれだけどこまでダンサー自身の主体性によるものか、振付家の主体性によるものか、わからないが、こじつけるわけではないけれども、ダンサーたちが存在というものの儚さに突き動かされていることが、こちらの心に響き渡り、揺り動かされるような思いがした。濃密で、つらく、カタルシスという言葉が本来持つような、崩壊と再構築をもたらした1時間だったように思われ、富岡櫂という人は、すごい時空を創ったものだと思った。
(三崎彩の「崎」の右の旁の上側は、本来「立」です)
■ 悲劇の現れ―サイトウマコト『ロミオとジュリエット』

前から、上村崇人、中津文花
あの時をもう一度生き直せたらという時を持っていない人は少ないんじゃないかと思う。唐突に当然のように、『ロミオとジュリエット』の登場人物たちを思う。もしあの時、そうしていなければ…というifを、誰もがいくつか持っていることだろうが、それが生き死にに直結することは、稀なはずだった。しかしながら世間話にしてはいけないが、この災害と戦争の時代に、ぼくたちはいくつかの致命的なifを抱えてしまっているように思えてならない。自由意志というものが「過去に対しては悔恨となる。何か出来たはずではなかったか、と。」(平野啓一郎『マチネの終わりに』第8章)という一節を読んだ時に、いったん留保しながらもうなずいてしまったのだが、この話者(ヒロインの父でハンガリー出身の映画監督)は、だからいっそ運命論的な考え方のほうがましじゃないかと迷いを見せるようなことを言う。それをせめて和らげ回避できる何かがあるとしたら、それは……結論めいたことは、やめておこう。
サイトウマコトのダンス作品『ロミオとジュリエット』は、再演に際して配役に変更や追加があった。ロミオは初演(2021年10月、Act31号で上念が公演評を執筆)も女性(斉藤綾子)だったが、その友人のマキューシオも女性(藤田彩佳)となり、さらに中間的で霊的な存在である「彷徨える亡霊」(中津文花、以下「亡霊」)が「ロミオに重なる魂」(上村崇人、以下「魂」)の対として追加された。特に男性役を女性に配したことについて、そのことで世界観の転倒や秩序への反抗があるというよりは、モンタギュー家の男たちの若さの備え持つ、柔軟で精悍でさえある中性性を強調することで、ロミオと友人たちの生硬な疾走感を出すこと、キャピュレット家の男たちとの対照を大きくすることに意を尽くしたのではないか。


手前右: 藤田彩佳、左:原田みのる
藤田によるマキューシオの、エッジの鋭い眼差しと動き、美しい肢体が圧巻だった。藤田については、コンテンポラリーダンスのどちらかというとノンダンス系の作品で観ることが多かったので、彼女の踊りを動きとして正面から観る機会はこれまで多くなかったが、改めてその魅力を再発見できた。
初演と大きく違っていた点の一つに、やや長めのプロローグが付け加えられたことがある。舞台上を左右に走り抜ける男、やがて人数が少しずつ増えて、亡霊と魂が現れ、原作を想起させる、路上での両家の若者の争いへと流れ込んでいく。このプロローグは、まだ『ロミオとジュリエット』の何ともつかない未詳の時空となっている。登場人物たちは、まだ役名ではなく、本名の一ダンサーとして現れているように見える。ここからダンサーたちは、役としてヴェローナの近過去へワープし、そして作品内の時間へと移動するという過程が確認できる。
亡霊と魂は、シューベルトの弦楽四重奏曲『死と乙女』第一楽章の激しく何かを切り裂くような音とともに現れ、二人の激しく大きな、特に亡霊の舞台を斜めに突っ切る動線が美しく鮮やかな残像となり、マキューシオ、ティボルト(原田みのる)の死へと、舞台は一気に雪崩れ込んでいった。
初演では魂は「不条理な死を強いられた無名人」と名付けられていた。今回の命名は、それよりも受け身感がなくニュートラルで、ロミオとの関係が強調された。そして亡霊と魂との関係は、明確にはされていないが、亡霊が「ジュリエットに重なる魂」であって不思議はない。どちらかというと、立ちすくむ魂、位置を大きく変えて激しい動きを見せる亡霊というコントラストが面白く、ロミオとジュリエットの関係を象徴しているようにも見える。
ここに二つの対が成立したことからつながって、今回マキューシオを女性ダンサーにしたことで、マキューシオとティボルトが強い対として成立したように思われたのが興味深かった。藤田は年齢もおそらくロミオの斉藤と近いと思われるが、二人の同質性が強調され、逆にティボルトとの性格的・年齢的、そして性差の対照が大きく鮮やかとなった。キャピュレット家の舞踏会にマキューシオが鮮やかな赤い(キャピュレット家の色)ドレスで参加し、ティボルトを様々な意味で刺激するのは、意表を突きながらも、マキューシオを女性に充てた以上は納得できる配置だったと言えよう。根拠のない深読みをすれば、この二人の間に、憎悪の果ての恋情が成立していた/予感されていたと言っても構わないのではないか。この対が明確になった結果、ティボルトのダンスが大人の男性としての激しさを増したことは、非常に効果的だった。
この『ロミオとジュリエット』では、かつて死んだ二人(亡霊と魂)、作中で死ぬ二人(マキューシオとティボルト)、最後に死ぬ二人(ロミオとジュリエット)という三対の死者が現れることとなった。シェイクスピアは若い二人の死の後に、両家を和解させ、立派な銅像を建てさせたが、この災害と戦争と分断と憎悪の現代に、和解とそのシンボルは何ものから与えられ、そしてそれは長く続くものとなるのだろうか。
文学や芸術は、誰かの悲劇に何ができるのか、とは飽きるほど問われ続けた幼い問いかもしれないが、ロミオが死んでこの世でたった一人になってしまったジュリエットに、再び池田由希子は極限の繊細さによって直面し、圧倒的な悲しみの量によってその悲劇を観客に追体験させた。この世界のすべての、大切な何かを失った者の悲しみを、ジュリエットが想像させ体験させることができた以上、ぼくたちには、現代のジュリエットを死なせないための何ごとかに、一歩踏み出さなければならないのではないか、とさえ思える。
人がつながり、つながったことでその誰かのために祈り、悲しみ、喜ぶことができることは、悲しみでさえも幸福なことだ。舞台芸術には、それを強く直接的に想像させ、追体験さえさせる力があるということを、強く感じることができた作品たち。それらの多くが必ずしも幸福な終わりを迎えていないことを、半ば当然のことと思ってしまうのは、やはりぼくたちがこの世界に対して、悲観的だからだろうか。悲しみは祈りに近く、共に悲しむことが人と人とを結びつける。悲しみがないに越したことはないが、悲しみによって生まれるつながりは、ありがたいものだ。
▼大姥百合 蝦夷の百合と旅僧の出会い
2025. 09/27 (土)、2025.09/28(日)
作・演出・舞台美術: やなぎみわ会場:神戸六甲ミーツ・アート2025 beyond ミュージアムエリア 新池(川俣正「六甲の浮橋とテラス Extend 沈下橋2025」 )
出演:JanMah(音楽)、志人(語部)、大宮大奨(踊子)、MECAV(ポールダンサー)、時宗踊躍念仏僧、音遊びの会、踊り念仏衆の会
照明:藤本隆行(Kinsei R&D)
音響:高田文尋(株式会社ソルサウンドサービス)
舞台監督:黒飛忠紀(幸せ工務店)
制作:NPO法人DANCE BOX
映像制作:野田亮
共催:Artist in Residence KOBE(AiRK)
プロデュース:森山未來(Artist in Residence KOBE)
▼淡水『できるだけ遅く撮ってみる』路地裏の舞台にようこそ2025 参加公演
2025年9月27日(土)〜29日(月)
会場:南海高架下 太陽製麺所前
振付・構成・演出:菊池航
出演:平山ゆず子、今井美帆(少年王者舘)、瀬戸沙門(レトロニム)、SU箱、菊池航
写真:koichiro kojima
照明:今村達紀
サウンド:SU箱
テクニカル・装置:mizutama
舞台監督:井上和也
主催・制作:淡水共催:路地裏の舞台にようこそ2025
▼ハイドロブラスト『ケアと演技』
作・演出:竹中香子出演:太田信吾、竹中香子音楽:島崎智子、服部将典
日時:2025年9月18・19日 大阪、9月26・27日 上田、10月2・3日 横浜
大阪会場:西成永信防災会館
脚本編集協力:萩原雄太(かもめマシーン)、太田信吾
協力:宮崎晋太朗、大崎晃伸
制作:佐藤瞳
プロデュース相談:武田知也(bench)
宣伝デザイン:内田美由紀(NORA DESIGN)
企画制作:一般社団法人ハイドロブラスト
制作協力:一般社団法人ベンチ
後援:株式会社デューズ
主催:一般社団法人ハイドロブラスト 『路地裏の舞台にようこそ 2025』連携企画
▼『儚氷〜命は雪の吐息 触れた瞬間、姿を消す〜』
振付・演出:富岡櫂
出演:倉本たま子、高橋佑紀、富岡櫂、本間紗世、三崎彩
2025年8月14・15日
会場:千鳥文化ホール
企画・運営:本間紗世
▼『ロミオとジュリエット』 サイトウマコトの世界vol.11
2025年4月12日
会場:兵庫県立芸術文化センター阪急中ホール
[構成・演出・振付]サイトウマコト
[出演]天野光雄 池田由希子 榎本心 上村崇人 亀田研介 河森睦生 栗野竜一 小森慶介
斉藤綾子 佐々木夢奈 佐野紀子 十川大希 中田一史 中津文花 長尾奈美 夏山周久
原田みのる 平嶋朱珠 藤田彩佳 藤原美加 本城洸樹 舞羽 宮田愛里 矢木一帆 矢﨑悠悟
山口章 米田くるみ
[スタッフ]
舞台監督|難波まはる
照 明|三浦あさ子
音 響|金子彰宏
美 術|中西朔
ヴィジュアル|十川大希 ヴィジュアルタイトル「生きている。」
フライヤーデザイン|遠藤リョウノスケ
制作・振付助手|斉藤綾子
「世界のいのち」を問いかける、未来へ向かう能楽▲瀧尻浩士
能楽協会「未来につなぐ、能楽の世界」

©公益社団法人能楽協会
©The Nohgaku Performers’ Association
2025年大阪の夏は例年にもまして熱い。大阪・関西万博、その是非はともかく、連日猛暑の中、開場前から多くの人々がゲートに立ち並び、日本のみならず世界各国からの会場は来場者であふれている。会場では多くのパビリオン以外にも世界各国によるイベントが数々催されている。その中で能楽協会、日本芸術文化振興会、文化庁主催の本公演は、日本が提供するイベントのうちのひとつとして、7月13日と14日の各日2回、計4回上演された。それは海外からのゲストに“Nohgaku”について知ってもらう好機であるばかりでなく、国内来場者にとっても、「能楽」とは何かを意識的に再考させる機会をもたらすものになっていた。この公演には人間国宝・大槻文藏、金剛永謹をはじめ各流派より能楽師が集い、総合演出・野村萬斎のもと、万博という特別な空間で、万博ならではの能楽を作り上げた。公式サイトにはこう書かれている。
誘うのは、森羅万象を映す鏡をもつ野守の鬼。春は能「道成寺」、夏は能「土蜘蛛」、秋は能「紅葉狩」に狂言「菌」、冬は能「船弁慶」、旅をするように四季をめぐり鬼と出会う。それぞれの鬼は何を思うのか。能楽が描く鬼とは、そして人間とは…。万博のテーマ「いのち輝く未来社会のデザイン」に呼応し、能楽を通して多様な「いのち」のあり方を表現する。
この舞台はひとつの演目を上演するものでも、また単に複数の演目を紹介するものでもない。日本の四季をめぐる旅としてそれぞれの季節を表す演目が選ばれ、それらは「鬼」というテーマで結ばれる。また結ばれた能と狂言の各演目はそれぞれのダイジェスト版ではなく、全体を貫く「鬼」という主題について考えさせるにふさわしい一場面が抽出され、演出されている。果たしてEXPOホールでのこの上演は、万博のテーマにいかにして接続しようとしたのか。そして能楽をどのように未来につなごうとしたのか。
舞台はまず『翁』で始まる。万博共通の願いである「天下泰平、国土安穏」を祈祷する舞から、次第にその願いを乱すような「鬼」の世界へと観客を誘う。その先導役が『野守』の鬼神たちである。彼らは鏡を手に持ちながら舞台から飛び出し、観客席の間を駆け回る。鏡は観客の顔を映し出すように向けられ、また鏡に反射したスポットライトの光が観客の目をくらませる。観客は本来の能における、森羅万象を映す「野守の鏡」の役割について、物語を通じてではなく、演出により彩られた各場面の一瞬にその意味を感じ取るのである。
本舞台は一応設えた四本の柱と橋掛かりによって整えられてはいるが、能楽師はその空間に制約されることはない。地謡座も本来の位置から後方脇に配されているので、本舞台そのものも能楽堂のものより広いと思われる。また半円形のすり鉢状の客席からなるホール自体も、あきらかに能楽堂よりも大きな空間である。この広い空間では、能楽師たちは繊細さよりも、むしろダイナミックな動きが求められる。さらに登場人物は鏡の間から橋掛かりを渡って出てくるだけでなく、正面のスクリーンを割って現れたりもする。
また『道成寺』の釣鐘、『紅葉狩』の真紅の森、『船弁慶』の荒波など劇中人物を取り巻く世界は具体的なイメージ映像として、正面スクリーンとホールの壁全体に投影される。そこに豪快な音響と劇的照明が加わり、観客はホール全体を使った劇世界に引き込まれる。こうした超能楽的な聴覚・視覚的効果を駆使した上演は、「鬼とは何か」を問いかけるテーマに沿って、次々に繰り広げられるスピーディな場面展開とダイナミックな演出で息もつかせない。このワクワク感はまるで、テーマパークのイマーシブアトラクションだ。
「実演(ライブ)と大型映像を融合させた新感覚の能楽公演」と謳われているように、能本来の様式を超えたパフォーマンスと、劇的効果を付加する映像、音響、照明といった現代的な舞台演出効果を取り入れることで、伝統的枠組みを問い直し、新たな能楽的世界を再構築したと言えるだろう。その結果、「能楽」であって、「能楽」でない世界がホール全体を使って作り出されたのである。
能舞台の空間から逸脱し、本来の能楽からみれば不必要と思われるような最新の舞台技術による意味の増幅は、古典芸能としての「能楽」のあるべき姿ではないと言われるかもしれない。「間違った能楽の紹介の仕方だ」「本来の能の美学が失われている」などといった批判があってもおかしくはない。
だが、この上演は過去から現在まで受け継がれてきた日本の伝統芸能をそのままの姿で再現してみせることを主たる目的としてはいないということに留意したい。「私、『能』なんてみたことないけど、わかるやろか」「私も」と、開演前に話していた筆者の隣に座っていた三人連れの関西弁の御婦人たちは、終演直後に「あー、おもしろかった」「思てた『能』と違ったわ」「これこそ現代的な能やね、知らんけど」などと口々に感想を語り合っていた。
厳格な決まり事の中でその意味を美学的に表現し、観客もまたその枠組みを理解した上で劇世界を受容するという、本来の「能」が依拠する鑑賞システムの技を持ち合わせない、日常において能楽とは遠い距離にある日本人も含めた各国の観客(万博来場者の大半はそれにあたるかもしれない)に向けて、ジャンルとしての日本の伝統芸能「能楽」の存在を一方的に紹介するのではなく、イベント観覧者としての彼らをも巻き込み、同時代の舞台芸術としていかに彼らを楽しませ、そして劇の本質に迫らせるかに重点が置かれていると言えよう。果たして、終演時には日本人のみならず海外からの観客も熱烈なオベーションで演者たちのパフォーマンスを称えた。万博の一イベントとして、期待された役割を十二分に果たした上演だったと言えるだろう。
とはいえ、本公演の意義はこの博覧会のための特別な催しとしての上演だけにあるわけではない。これは未来に向けての能楽のありかたを模索する上演であり、「未来社会をデザインする」ように「能楽の未来をデザインする」試みなのである。したがって、この上演が従来の「能楽」とは異なる手法を取ることは当然のことだといえる。但し初見者に対し、これが本来の能楽であると勘違いさせてしまうことは避けなければならない。その点、前述の客席降りの演出やプロジェクションマッピングのような現代的デジタル技術をあからさまに採用することで、古来の能楽の姿ではないことが感覚的に理解できるようなものになっている。観客は万博のテーマと能楽の未来が交差する瞬間を体感するのである。
野村萬斎の演出は、万博イベント作品として未来に向けて新しい技巧を取り入れた「新感覚の能楽」のスタイルの提示だけに留まらないものがあることを感じさせた。「能楽」にすでに親しんでいる観客においては、能楽作品が伝えようとする本質的なものを「鬼」という存在を通して見つめ直させること、さらには能楽という芸能そのものの存在について再考を促すものにもなっていた。
そのために本来ミニマルな能楽には不必要なものがあえて説明的に付加されているのである。舞台正面には天井から吊り下げられたスクリーンとは別に、本舞台の上手と下手にLEDパネルが設置されている。この左右のパネルには、舞台で演じられている演目をサポートする文字情報が映し出される。通常であれば、個々の演目のあらすじなどの解説となるところだろうが、そうした能についての学習補完機能ではなく、作中の世界観やテーマとなる「鬼」とは一体何なのかなど、観客への問いかけが、科白やあらすじではない言葉の投射で迫ってくる。(言葉は日本語と英語で表示され、その効果は能を識る日本人向けだけに限らない。)
こうした本舞台の外側の文字情報は、映像や照明による能楽世界への没入感とは真逆の効果をもたらす。別の例では前述したように、能楽師が本舞台から飛び出すことにより舞台と客席が渾然一体となる一方で、それは狭い能舞台上に創出される幽玄世界を崩壊させ、この作品がホール全体に拡大した「能楽の世界」を描いた作り物であることを観客に認識させることになる。これに加えて、二台のLEDパネルに日本語と英語で表示された観客への問いかけの言葉によって、観る者は能の世界が元来持っている幽玄性から引き離され、客観的にイベントとしての「能楽」を意識せざるを得なくなる。ここにブレヒト的な効果が生まれているとは言えまいか。「能楽」という独特の形式をもった舞台芸術・芸能とは何なのか。何をもって「能楽」と我々はそれを認識するのか。「能楽」は人間の本質についてどのように描き、我々に訴えかけようとしているのか。「能楽」は未来にむけていかにして立ち向かっていこうとしているのか。演出によるエンタメとしての没入感と芸術世界に対する異化効果が同時に成立した空間の中で、この上演は能楽を総体的に楽しませると同時に、能楽におけるそんな諸々の課題について再考させようとするのである。万博のテーマとの接点だけでなく、未来に向けての「能楽」自体のありかたを自問自答し、そして観客自身を取り巻くこの世界について見つめ直す機会を与えることを、独自のパビリオンを建設せずとも、有効な方法で果たしたと言えるだろう。
上演の終わりには、総合演出の野村萬斎が登場する。『野守』の鬼神の鏡の意味を、自然、森羅万象、人間の本質を映すものとして、『ハムレット』の第3幕第2場の科白を引用しながら説明し、また能で描かれる「鬼」について、それは哀しい人間の姿であり歴史における敗者の存在であると語る。上演そのものとは別に、演出家としての意図の解説やツーショット撮影など観客へのサービスもまた、能楽と観客との距離を近づけるエキスポ公演ならではの付録であろう。
EXPOホールの外、大屋根リングに囲まれた内側には各国のパビリオンが密集している。それぞれに自国の良さをアピールするために工夫した展示がなされている。だが実際、各国とも「未来社会をデザインする」以前に、解決すべき深刻な「現代社会の問題」を抱えている。東ゲートを通り、会場内すぐ正面には人気の「アメリカ館」が位置する。それを中心に見立てると、他国のパビリオンとの間に複雑に絡んだ政治の糸が見えてくるようだ。どの国もアメリカとの関係、関税の問題に今まさに頭を抱えている。また共同展示の「コモンズC」にはイスラエルとウクライナが、その斜め向かいの「コモンズD」にはパレスチナが出展している。各国が万博に集うということはどういうことなのか。アクチュアルな戦争、政治経済戦争、その中で一体「鬼」は誰なのか。この上演が示したように、見方を変えれば「鬼」が意味するものもまた違って見えてくる。
誰もが「天下泰平、国土安穏」を願いながら、現実には世界全体、どこの国もまだそこには到達しえていない。『翁』の舞は今では単なる伝統芸能の演目としてしか機能しないのだろうか。様々な手法を取り入れたこの公演で、現代の能楽師たちは自分たちの表現ツールを使って、世界の見方を変えてみることを提唱したのかもしれない。そのために、伝統的表現形式のあり方に固執しない方法をとったのだろう。問題は、「能楽の未来」だけにあるわけではない。
能楽が描く世界は生と死、人と自然、すなわち「いのち」の問題で溢れている。人が生きていくことは未来に向けて歩むことであり、同時にその道を阻むものが存在する。そして生と死、過去と未来をつなぐものは今を生きる「いのち」でしかない。能楽は常にその「いのち」のありかたを問うてきた。世界中の今を生きる人たちは様々なかたちで、ずっとその答えを探し続けている。そのひとつの手がかりとしての可能性を持つ能楽は、極東のエスニックシアターとして受容される受け身の時代から、「世界のいのち」を考えるための有益な方法論のひとつであることを主張する時代へ向かうべきであろう。
今回の上演のテーマである「鬼」はそこへ向かうための一つの視点である。いまこの地球上に生きる私たちがすべきことは、「鬼」を否定し排除することではない。「鬼」の正体を理解しようとすることなのだ。まずはそこからはじめてみよう。未来に目を配ろうとする能楽の新たなる姿勢はこの上演を通して、そんなことを語りかけてくるように思えた。
瀧尻浩士(たきじり・ひろし)
演劇研究。博士(文学・大阪大学)。
宝塚北高校演劇科特別非常勤講師。
宝塚、文楽、上方喜劇に上方落語、関西ゆかりの芸能をこよなく愛する。
笑いのある人生を・・・
May the FARCE be
with you!
能『道成寺』
紀州道成寺で再興された鐘の供養に、白拍子の女が現れ舞を奉じるふりをして鐘に飛び込む。実は男に捨てられ怨念を抱く清姫の霊で、鐘の中から蛇体となって現れ僧と争うが、祈祷により退散する。乱拍子や鐘入りが見どころの大曲。
能『土蜘蛛』
病に伏す源頼光のもとへ怪しい僧が現れ、正体を現して蜘蛛の糸を放ち襲いかかる。頼光は名刀膝丸で斬りつけ退散させる。家臣の独武者が血痕を追って葛城山の古塚へ向かい、現れた土蜘蛛の精と激しく戦い、糸を浴びながらもついに退治する。糸を投げる派手な演出が見どころ。
能『紅葉狩』
戸隠山で紅葉を楽しむ美女一行に、狩りの途中の平維茂が誘われ酒宴に加わる。舞と酒に酔い眠った維茂の夢に神が現れ、美女の正体が鬼であると告げ太刀を授ける。目覚めると鬼女が襲いかかり、維茂は神剣で激闘の末これを退治する。華麗な前場と迫力の後場の対比が魅力。
狂言『菌(くさびら)』
男の家に人間ほどの大きな菌(きのこ)が生え、抜いても一夜で元通りになるため、男は山伏に祈祷を依頼する。ところが祈れば祈るほど菌は増え続け、動き回って山伏や男にいたずらを仕掛ける始末。ついには鬼茸まで現れ、山伏は退治どころか逃げ出してしまう。山伏の威張りと狼狽が笑いを誘う曲。
能『船弁慶』
源義経が弁慶らと西国へ落ち延びる途上、大物浦で静御前と涙の別れを交わす。船出すると海は荒れ、壇ノ浦で滅んだ平家一門の亡霊が現れる。中でも平知盛の怨霊が義経を海へ沈めようと襲いかかるが、弁慶の祈祷により霊は退散。優美な前場と迫力ある後場の対比が魅力の名曲。
『翁』
物語をもたない神事的な祝言曲で、翁・千歳・三番叟が天下泰平・国土安穏を祈る舞を奉じる。能にして能にあらずとされ、古い猿楽の形式を残す別格の演目。

©公益社団法人能楽協会
©The Nohgaku Performers’ Association
能楽協会「未来につなぐ、能楽の世界」
日時: 2025/7/14(月)19時公演 所見
場所: EXPO2025 大阪・関西万博 EXPOホール「シャインハット」
出演者(14日19時):
観世銕之丞 大槻文蔵、山本章弘、梅若猶義、上野雄三、梅若基徳、吉井基晴、大西礼久、
立花香寿子、山本麗晃、大槻裕一、金春穂高、辰巳大二郎、豊嶋晃嗣、高林呻二
福王茂十郎、原大、福王知登、小林努、野村萬斎、茂山千五郎、茂山茂、善竹隆平、斉藤敦、
清水皓祐、山本哲也、中田弘美 ほか
憐れみを乞うは人間か自然か▲齋明寺蘭
アクラム・カーン「ジャングル・ブック」

埼玉公演より(C)宮川舞子
2025年6月28日、愛知県芸術劇場にてアクラム・カーンの『ジャングル・ブック』が上演された。
カーンの名前を冠した来日公演としては、『Chotto Desh』以来7年ぶりだろうか。この間、新型コロナの蔓延や生成AIの台頭、いくつもの戦争が始まり、世界中に大きな変化がもたらされた。
英国の作家キプリングによって1894年に発表された『ジャングル・ブック』は、日本でもディズニーアニメを通じて親しみ深い。ジャングルでオオカミに育てられた少年モーグリが、動物たちとの交流やトラブルを通じて成長し、最後には人間社会に戻るというのが原作の大筋だ。ちなみに舞台となるジャングルはインドをモデルとしており、バングラデシュ系イギリス人であるカーンと所縁は深い。(当時のインドとバングラデシュは、いずれもイギリス領インド帝国下にある。)
名作を独自の解釈で舞台化した本作に対して、「地球の発する気候変動の警鐘に耳を傾けず、人間が犯してきた失敗を見つめる作品である」とカーン自身は語る*。
舞台はダンサー達が小さな「箱」を携えるシーンから始まる。上昇した海面に水没するビッグベン、舟で逃げ惑う人々、そしてマスクやゴミで溢れた海に投げ出されるモーグリの姿が映し出される。原作と異なり、モーグリは少女として描かれる。
かつての都市に人の姿はなく、動物たちが暮らしていた。続々と登場するダンサーは、小道具や衣装を使うことなく、四つん這でなめらかな関節としなやかな動きで動物の姿を体現する。さすがアクラム・カーンカンパニーといった身体能力であるが、実際の動物の観察を経てクリエイションに臨んだという。最近はアニマルフローなるフィットネストレーニングも注目されているが、人間の肉体を究極化すると結局行きつく先は動物の四肢なのかもしれない。
前半はセリフとアニメーションを中心に、ダンサーたちのマイムを交えて本作の世界観が主張される。広い舞台に「集」で繰り広げられる圧巻のユニゾンシーン以外、ダンスの要素は控えめだ。終盤、蛇のカーの姿は箱の集合体で表現されるのであるが、箱という分断されたパーツでは蛇の持つ独特のしなるうねりが見えづらい。ダンサーのフィジカルを散々見せつけられた後だったため、生身の身体の方が雄弁に蛇を表現できたのではないかと惜しくも感じた。
どこか説明調であった前半から一転し、猿の集団バンダーログにさらわれたモーグリ奪還の緊迫したシーンから後半は始まる。モーグリをめぐる場には「democracy」「VOTE」の言葉が貼りめぐらされ、集団決議の様子は狂気的な熱を帯びる。
そもそもバンダーログが誘拐に至ったのは、人間だけが持つ「最強の力」をモーグリから引き出すためだ。(それにしてもジブリのもののけ姫の猩々しかり、猿はいつも人間の知恵を欲しがる象徴として描かれてしまうのか。)
この「最強の力」が「火」を示しているのは原作同様だ。ここで思い出されるのは、火を人類の知恵の証明と位置付けるプロメテウス神話だ。カーンは過去作『Xenos』において、プロメテウス神話を構想に取り込んでいることを明かしている。叡智の象徴であるはずの火が、巡り巡って人類に戦災をもたらすというアイロニーが『Xenos』には込められていたが、『ジャングル・ブック』においても彼の企みが潜んでいたと思わざるをえない。
作品最大の脅威として描かれるハンターの銃によって友人(鳥)を撃ち殺されることは、火という文明を持った人間と自然の共存がいかに困難であるかを決定づける。人類が利便性向上や技術発展に執心した結果、それ自体が諍いの種や存亡の危機を招いたことを憂いているのは彼の冒頭の言葉通りだ。
一見、救いのない物語であるが、作品中に散りばめられた欠片からカーンの祈りが見える。ジョスリン・プーク手掛ける劇中音楽は、Kyrie eleison―主よ、憐れみたまえ―を引用するなど、ミサ曲を彷彿とさせる。前半冒頭の水没シーンがノアの箱舟をオマージュしたものであることも想像に容易く、神という人間ならざる存在へ救いの手を求めている。カーンは人間の営みに期待することを諦めたのだろうか。
一方で、彼は今回の舞台を健全なエコシステムの中で実現するという現実的な目標にも向き合った。小道具にはリサイクル可能な段ボールを使用したほか、大規模な舞台装置なしにアニメーションだけで壮大なスケールを演出したこともその一環である。
作中で幾度と繰り返される「How dare you(よくもまあそんなことを)」の言葉。2019年気候変動サミットにおいて、大人の無責任さを非難したグレタ・トゥーンベリの有名な一節だ。彼はまだ、人間の営みを諦めてはいない。
カーンが制作のきっかけとして娘の存在を挙げたように、本作は大人に対する反省を促すとともに、未来の世代に生き方を問いかけるものである。ラストシーンで、モーグリは母から受け取った形なき教えを胸に再度海に出る。原作同様、行く先は人間の元か、あるいは別か。
ありのままの姿で挑むダンサーたちの身体は、緩急を効かせ、筋肉と関節の動物的強靭さを前景化する。一方で、そのしなやかさゆえに、生身の身体という有機体ならではの弱さも感じさせる。作品の展開を字幕やアニメーション、セリフに頼る面も多く、ダンス作品における身体のヒエラルキーを揺るがすものではあった。映し出された映像を虚像とするならば、実像の身体がどこまで抵抗できたのかという見方はできるだろう。
しかしながら、1つとも欠けてはなし得なかった作品であることは違いなく、演出頼みのスペクタクルではないことはアニメーションのシンプルさからも明らかだ。
カンパニーとしての活動終了を宣言したのは非常に惜しいが、近年の彼の作品は特定の属性にフォーカスした提起ではなく、すべての人間を対象とした普遍的な問いかけに移行している。カーンはまだ若い。次世代への希望とあわせて、彼の今後の表現を楽しみにしたい。

*公演パンフレット 本人インタビューより引用
アニマルフロー アメリカ発祥の比較的新しいワークアウトプログラム。四肢と地面を接地し、器具を使うことなく自身の身体のみで柔軟性や筋力を活性化させる。動物の動きに着想を得た動きが多いことや、人間という動物の機能向上を目的としていることが由来とされている。https://animalflow.com/
『Xenos』 アクラム・カーン自身が振付・出演したソロ作品。第一次世界大戦で英国のために戦った植民地の兵士たちの記憶と経験に焦点をあてた作品であり、カーン自身はかつて植民地であったバングラデシュ系の英国人でもある。本作で2019年英国批評家協会賞 最優秀男性モダンダンサー賞を受賞。
齋明寺蘭(さいみょうじ・らん)
1987年生 神戸大学にて舞踊を学ぶ。卒業後は民間企業や大学にて教育研究支援に携わる傍ら、高校ダンス部コーチ等も経験。
現在は大阪大学人文学研究科にて、関西のコンテンポラリーダンスを中心に研究。盆踊りからブレイクダンスまで、踊るものなら何でも好き。

埼玉公演より(C)宮川舞子
日時:2025年6月28日
会場:愛知県芸術劇場 大ホール
演出・振付:アクラム・カーン
出演:アクラム・カーン・カンパニー
クリエイティブ・アソシエイト&コーチ:マーヴィン・クー
脚本:タリク・ジョーダン
ドラマトゥルギー・アドバイザー:シャロン・クラーク
作曲:ジョスリン・プーク
音響デザイン:ギャレス・フライ
照明デザイン:マイケル・ハルズ
舞台美術:ミリアム・ブーター
アート・ディレクション&アニメーション・ディレクター:アダム・スミス(YeastCulture)
ビデオデザイン・プロデューサー&ディレクター:ニック・ヒレル(YeastCulture)
ロトスコープ・アーティスト&アニメーター: ナーマン・アザリ、ナターシャ・セトナー、
エドソン・R・バザーリン
橙の空に、あわいに、踊る▲齋明寺蘭
『Tangerine Sky vol.2』

撮影:大島智広
NDTやボリショイ・バレエ団をはじめとする世界最高峰の舞台で活動する振付家ディモ・ミレフと、元NDT2で現在もオランダを拠点に活動する三崎彩を中心に、若い才能が集まった。
会場となったAccospace μ(アッコスペースミュー)は2024年12月に大阪北加賀屋にオープンした比較的新しいダンススペースである。ビルの中とは思えないほどの高い天井、広々としたリノリウムの空間が奥へと伸びる。スタジオ背面の大きな壁の後ろには、楽屋機能も備わっている。通常はダンススタジオとして営業されているが、なかなか本格的なダンスハウスがなかった大阪では多方面に重宝されることが期待される。ダンサーたちの息遣いまで聞こえるほどの距離で鑑賞できる贅沢な空間だ。
2024年神戸で好評に終えた第1回に続き、海外・全国から才覚ある若いコンテンポラリーダンサーが集結した。
スタジオには、コの字型にぐるりと客席が並べられる。中央にぽっかり空いた舞台空間に、続々とダンサーが登場する。壁裏にでも潜んでいたのだろうか。するりと静かに、しかし確かにある凛とした存在感。スタジオパフォーマンスの魅力は、何気ない空間がダンサーの登場によって不意に舞台へと変容する、その境界の瞬間にあるように思う。
ダンサー達の纏う衣装は落ち着いた色味の普段着に靴下。スタジオの正面入口が突然開いたかと思えば、レッスン合間の休憩かのように談笑しながらダンサー達がぞろぞろと入ってきて突然始まるユニゾン。どれも日常と非日常のあわいを漂わせる。
背面の壁の隙間から、18名のダンサーたちは入れ替わり立ち代わる。ときにダンサーたちは壁によじ登り、ときに吸い込まれてゆく。壁もまた、単なる出入口の役割を超え、内と外のあわいを往還する象徴として現れていた。
作品を通じて、何か特定のモチーフが示されていたわけではない。牧歌的でどこかノスタルジックな音楽と、タイトルにもある『Tangerine』が喚起する温かな色彩の中、穏やかで柔らかい時間が流れる。ダンサーたちの動きも直線的なキレよりも、重力と呼吸を感じる曲線の連続が際立つ。柔らかく水面が揺らぐ景色が連想されるような、特に、ダンサーが身体を預けてボートを漕ぐように進むシーンは印象的だ。


撮影:大島智広
時折、ダイナミックなソロやデュオが立ち上がる。だが緊張感が立ち現れたとしても、それは決して生死を震わせるようなエッジのあるものではない。昨今のコンテンポラリーダンス作品にありがちなスピードやスペクタクルなしに、確かなフィジカルとテクニックを見せてくるのは一流のダンサーならではだろう。しかし同時に、彼らはなお研鑽の途にいる発展途上のダンサーでもある。事実、既に確かな技術を備えながらも、まだまだ肉体的な進化を予想させるダンサーが多かったことは特筆すべき点であった。
思えば橙色の空(Tangerine sky)は夕焼けであり、一日の終焉を思わせる。いかにも闊達な若者を連想させる青空とは反するのであるが、本作を通じて立ち現れるのは哀愁ではなく未来への希望である。彼女らはそれを「果てしない冒険の始まり」と呼んでいた。
劇場と稽古場の境目の空間で、決して未熟でこそないが成熟もしていないダンサー達が、1日の終わりを予期させる橙色の空で「何か」を始めようとしている。白黒の決着を急ぐ現代社会で、作品を通じてもたらされる曖昧さが観客に温かな感情を残していく。上演後、ディモはダンサー達にステージらしく踊らないこと、ステレオタイプな舞台人とは異なる表現を要求していたと語った。ディモの表現する曖昧な世界は、ダンサーを通じて確かに実現した。
出演者の多くは関西出身であり、海外のカンパニーやバレエ団、大学で技術を研磨したダンサーばかりである。ここまで多くの優秀なダンサーが今回集まったのは、主催である三崎の華々しい実績だけでなく、常に最前線に立ち、踊る背中で語り続けた彼女の存在自体に魅せられたことも大きいだろう。三崎は、「コンテンポラリーダンスを日本に根付かせたい」と強い意志を明言する。首都圏を中心にコンテンポラリーダンサーの活躍の場は増えつつあるものの、関西では依然として厳しい状況が続いている。大阪万博2025でも多くのダンサーが活躍の場を得ているが、一過性に終わらず彼らが舞台に立ち続けられる環境を作らねばならないと、関西のダンスを見つめる一人として引き締まる思いになる。若手が助成金を得ることも容易でない中、若いダンサー達が自ら行動して素晴らしい作品を大阪にもたらしたことに改めて敬意を表したい。そしてこの橙色の光が、関西におけるコンテンポラリーダンスの地平を照らすことを心から願いたい。
日時:2025年8月9・10日
会場:Acco Space μ (大阪府)
振付・演出 ディモ・ミレフ
出演
平雛子、佐々木沙南、松本夏帆、三崎彩
吉田渚、河野早百合、村林楽穂、紙岡慧、中村文音、鎌田望恵、キム・ミンス、本城洸樹、杉浦ゆら、小槌朝香、中谷美咲、佐々木菜月、鈴木舞子、田中咲子
企画・運営 三崎彩 (三崎彩の「崎」の右の旁の上側は、本来「立」です)
劇場というタイムループ装置▲小山沙恵
音楽劇「MONDAYS/このタイムループ、まだまだ終わらない!?」

撮影:田中亜紀 写真提供:株式会社パルコ
同じ演目の舞台を見に行く。その経験は舞台好きなら誰しもが体験したことがあるだろう。同じ俳優、同じ台詞、同じ舞台装置だが少しずつ違う。それを楽しみに舞台を繰り返し見にいく。側から見たら我々はまるでタイムループをしているようなのではないか?
そのような舞台の特性を活かし、映画『MONDAYS/このタイムループ、上司に気づかせないと終わらない』(監督:竹林亮)の初の舞台化を行なったのが本作『音楽劇MONDAYS/このタイムループ、まだまだ終わらない!?』(上演台本・演出:ウォーリー木下)である。劇場にいる全員が同じ瞬間を繰り返す、このアトラクション的ドタバタコメディにおいて、どのようにタイムループが機能しているかを、舞台装置や音響の点から、そして映画の舞台化の意味を俳優、脚本、演出を中心に論じる。
タイムループにより毎日が繰り返される中で、現在どの曜日の話なのか観客が迷子にならないよう、舞台装置、映像が効果的に使われている。まず、劇場に入って目を引くのは舞台上部に設置されている大きな円形のリングであろう。側面には「MONDAY、TUESDAY、 WEDNES-DAY、etc.」と文字が書いてある。この文字が場面ごとの曜日に対応して光ることにより、観客は今のシーンが何曜日であるかを瞬時に継続的に確認することができる。また、舞台セットは二階建て設計であり、上の階にビルの屋上、下の階はオフィスとなっている。下の回のオフィス部分には横長のスクリーンが設置されており、普段は窓の外の風景を映し出しているが、曜日が変わる際にはその曜日の名前を表示していた。その他、映像を映すため、小さなテレビや会議中にプレゼン資料を映し出すスクリーンなどが使用されていた。これらには内容に関わる映像が映し出されることも多かったが、席の角度によっては見えないこともあった。中心のスクリーンにも同時に映すことができたら、より内容が明確に伝わったのではないだろうか。
次に、「音楽劇」としての舞台化であることから、音楽、音響面についても着目する。不思議なことに俳優が歌を歌うのは一幕と二幕の最後に一曲ずつ、合計二曲のみである。このことには当初、少々意外性を感じたが、今作における「音楽」は「歌」ではなく「音」そのものではないかということで結論づけたい。ループを続ける中で、植木に水を振りかける音、棚を開ける音、紙をめくる音などが特定のリズムを刻むが、この音がテクノロジカルな音楽と合わさることによって爽快なリズムが生まれ、同じ場面が繰り返されても飽きることなく見ることができる。また、「音」の重要性を裏付けるかの如く、俳優がつけているマイクはそれほど音が響かない。初めの頃はマイクを使ってないのではないか、とさえ錯覚した。背景に流れる音、効果音、そして生音が重なり、台詞が聞こえないのではとこの劇評を読んでいる「あなた」は心配されたかもしれない。しかし、今作はタイムループ物であり、台詞もループすることが多いことから懸念する必要はない。
以上、舞台装置や音響等、所謂タイムループを表現するための「ギミック」を紹介したが、次は今作の原作が映画である点にも着目したい。パンフレットの記載にて、劇作家の上田誠氏は「映画は時間(操作)との相性がいいが、舞台は時間との相性が悪い」と述べている。では、本作が舞台化を果たしたことにどのような意味や利点があるだろうか。答えは舞台の構造の中にあると考える。一つは、メイン俳優7名が、多くの時間に通しで舞台上に存在することである。そして、台詞を発することなどで本筋を進行させる、観客に注目させたい俳優にスポットライトが当たる一方で、他の俳優も視認できる明るさで舞台全体に照明が使われている。また、物語の筋書きでは最初に村田賢と平間壮一がループに気づいた後、他の登場人物に一人ずつ情報を伝えていくが、その途中で、台詞や大まかな流れはループするものの、一人一人の動きは少しずつ異なっていく。要するに、常に一人の俳優を双眼鏡で追うことも、筋書きが意図している楽しみ方になる。カメラによってアングルが決まっている映画と比べ、視点を選ぶことができる事は舞台の特色と言える。
舞台は劇場で行われることから、その劇場の中にいる俳優、スタッフ、観客含めその全員が共に同じループに存在する。神田川聖子役の大空ゆうひはX(旧twitter)にて「お客様が入って楽しんで笑ってくださってタイムループを抜け出した爽快感ってこんな感じ?!と思えた」とコメントしている。また休憩時間の客席では「謎解き的要素が多くて楽しい!」と話している観客もいた。そして、冒頭でも述べた通り公演はほぼ毎日繰り返し行われる点が挙げられる。最後に一点付け加えるのであれば、もし俳優が最後に観客へ直接語りかけるような演出があれば、“観客もループの一員だった”という実感をさらに強められたかもしれない。
筋書きの中での登場人物の癖の「ループ」、物語上の一週間が繰り返すことの「ループ」、俳優の「ループ」、観客の「ループ」、様々なループが重なり合い、公演が終わり、劇場から出る時我々はやっとループから抜け出せる。それは、今作を見る前の世界とは違う新しい「月曜日、MONDAY」になっているのではないか。

小山沙恵(こやま・さえ)
早稲田大学文化構想学部JCulP(国際日本文化論プログラム)在学中。

映画版。2022年製作/82分/
配給:パルコ。監督:竹林亮。
脚本:夏生さえり、竹林亮。出演:円井わん、マキタスポーツ、ほか
PARCO PRODUCE 2025 音楽劇「MONDAYS/このタイムループ、まだまだ終わらない!?」
2025.10.5(日)〜 2025.10.27(月) PARCO劇場
2025.11.1 (土) ~ 2025.11.3(月) 森ノ宮ピロティホール
上演台本・演出 ウォーリー木下
作曲・音楽監督 三浦康嗣(□□□)
出演 薮 宏太 平間壮一 南沢奈央 森田甘路 吉本実憂 松尾敢太郎 岡田義徳 大空ゆうひ
梶原 善
スウィング 花戸祐介 涼花美雨