top of page
瀧尻浩士大阪人による大阪人のための「文化人類劇」
                      ~『12人のおかしな大阪人2023』
上念省三事物の隙間~『Hyper Ambient Club 2023 私の唇はあなたの耳に、あなたの手は私の手となり、私たちが作った影の下で動く言葉』
​小山沙恵歌が伝えてくれるもの
                      ~日中合作音楽劇『李香蘭―花と華―』 
◇をクリックすると、記事に飛びます
​筆者プロフィールは、寄稿当時のものです

大阪人による大阪人のための「文化人類劇」
『12人のおかしな大阪人2023』
瀧尻浩士

takijiri

 タイトルに「2023」とあるように、本作『12人のおかしな大阪人2023』(企画・台本・演出:わかぎゑふ)は1995年に上演された『12人のおかしな大阪人』(作:東野博昭・G2・生瀬勝久、演出:生瀬勝久)のアップデート版だ。そして原作映画版が有名なレジナルド・ローズの『十二人の怒れる男』のパロディ劇であることは、そのもじった題名からも明らかだ。しかしパロディとしてはこれが最初のものではない。それ以前にも同じ原作を元にした、筒井康隆の『12人の浮かれる男』(1978)や三谷幸喜の『12人の優しい日本人』(1990)といった先行するパロディ劇が存在している。それらはまだ裁判員制度施行前の時代に(実は戦前の日本にも陪審制はあったのだが)、もし陪審制が日本にあったとしたら(あるいは復活したら)という仮定のもと、筒井流のブラックユーモアや三谷流のアイロニーで、架空の制度下に置かれたその時代の人間の姿を笑いによって描き出した。コメディという手法において、本作もその流れの上にあることは確かだろう。だが登場人物を大阪人にしたことで、この劇は、「人間」あるいは「日本人」というその対象の広さや曖昧さから逃れて、「大阪人」そのものの生態を観察する劇となった。種々雑多な大阪人を12人集めて舞台に配置するだけですでに物語が走り出す。喜劇として成立させるための、奇抜なプロットや設定、人物をわざと可笑しくみせるような小細工はむしろ邪魔かもしれない。この劇はその点をきちんと理解して作られている。


 選ばれし陪審員たちは、大学生、営業職のサラリーマン、妊娠中の主婦、水商売の女性、塾講師、議長を務める男、小学生、会社社長、初老の女性、喫茶店主、作家、運転手と、他の「12人」ものの作品と同じく職種も年齢も違う個性豊かなキャラクターばかりだ。ただ本作がそれらと違うのは、そうした社会的な分類以前に、全員が「大阪人」という最もだいじな共通要素を前提としていることだ。ところがその12人の中には「尼崎」や「宝塚」などの大阪出身者でないものが含まれていることを陪審員の一人である小学生が鋭く指摘する。だが劇は彼らのような偽陽性的大阪人も大阪人として議論の輪の中に入ることを許容する。「大阪人」としての素養のほうが、出身の事実より優先するのだ。ボーヴォワールではないが、人は大阪人として生まれるのではなく、生きる中で大阪人になるのかもしれない。大阪のお笑い界が大阪出身者のみで構成されているわけではないという事実がそのことを物語っている。


 そんな陪審員たちが、「女子大生が牛丼屋の店長を毒殺した事件」について審議する。彼らの意見は有罪と無罪に真っ二つに分かれる。話し合いによって彼らの評決は一致に至るのか。結論に至るまでの原作のスリリングさは、本作では徹底的に笑いに置き換えられる。

 

 大阪人は他人の言葉に耳をかさない、エゴの塊のように思われがちだが、実際はその逆だ。確かにデカい声で挑みかかるような勢いで話したり、ときにはくだらない悪ふざけで場を茶化すような態度を取ることもある。だが底意は至って真面目なのだ。この舞台上の12人も例外ではない。わざとボケる努力、それをすかさず拾ってツッコむ技術。言葉のキャッチボールを通して、置かれた環境に適応し、他者との融和を試みる。(但しそのボケが甘いと痛烈なカウンターを受けることもある。)劇中でもダジャレを連発する喫茶店主は自分が放ったボケに誰もツッコまないと愚痴る。するとメンバーのひとりである小学生男子が、それにはツッコめないと彼のボケ方の不手際を論理的に解説する。突っ込めない間違ったボケ方を指摘することは、大阪人にとって、それは敵対の姿勢ではなく、正しくコミュニケートするための、つまりは理にかなった議論をするための前提にまで相手を導く優しさなのだ。「そこに愛はあるんか」と問われれば、愚問!と言い返すしかない。大阪人はただ円滑に議論する方法を自らの内に探り、またその努力を相手にも求めるのである。大阪人が二人寄れば漫才になると言われるが、それはボケとツッコミによる対立ではなく、意見の異なる相手とのコミュニケートを試み、話の落とし所をみつけようとする弁証法的な融和の姿勢なのだ。この劇の対話=陪審員としての議論には、すべてこの「愛」あるコミュニケーションが基礎にある。

 

 また本作で注目したいのは、舞台上の陪審員の配置の仕方だ。舞台に12人が登場しそれぞれ席につく。それまでの多くの上演においては、原作映画にならって、全員が長机あるいは丸テーブルの周辺をぐるりと囲んで座る配置になっている。まさにこれからの議論に向けて対峙する姿勢だ。観客は彼らを遠くから見守る位置に置かれる。それは審議を見守る傍聴人のようなポジションだと言えるだろう。ところが本作では、すべての机と椅子が客席に向かって「弧」を描くように配置されている。客席からは陪審員となった彼らの顔を全員正面から見ることができる。陪審員どうし向きあう配置にはなっていない。

 

 12人の陪審員たちが、机を一列にして並んで座る。客席から見ると、その構図はどこかレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』を思わせる。彼ら「十二使徒」は、議論することで「真実」の肉と血を分かち合い、最後の審判へと向かう。そう考えると、舞台上では不在のキリストこそが、彼らが苦悩しながら議論し求めようとする事件の「真実」なのかもしれない。

 

 舞台上の配置はこうした象徴的な見かたの可能性を生むと同時にまた、観客席も含めた劇場空間全体に対して別の効果を生み出している。舞台上の陪審員たちの弧を描く並びに対して、客席はその弧を円にして閉じるように位置する。観客はもはや傍聴人ではなく、議論の円卓を囲む陪審員の構成者となる。それは13人目の陪審員という生半可なものではなく、観客の数だけ陪審員が存在すると言っていいかもしれない。というのも、劇中しきりに舞台上の人物の台詞に反応し、時には小声でツッコむ声が私の後ろのいくつかの席から聞こえて来たのだ。「そらせやわ」「わかるぅ」「それはないわ、アハハ」。本人は無意識だろうが、彼女ら(いずれも女性の声でした)は劇を観ているというより、もはや舞台上の議論に参加しているかのようだ。他の芝居なら、そうした行動はこのご時世ということもあり、戒められるべきなのかもしれないが、この劇に限っては、こうした彼女らの無意識のつぶやきは意図した台詞のように間合いよく聞こえてくるので、迷惑というより劇の一部として楽しむことさえできた。彼女らも「おかしな大阪人」のひとりなのだ。

 

 大阪人にとっては、日本人であろうがなかろうが、どこに住んでいようが、問題ではない。その前にまず本質として「大阪人である」ことが重要だ。この劇はそのことを証明している。話好きで主張はするが、相手をねじ伏せない。自分のことでないのに必死になる。大阪人がよく口にする流行りの「知らんがな」「知らんけど」は無責任にも聞こえるような言葉だが、それは責任逃れの姿勢では決してない。主張してなお余白を残す。むしろ自分の意見は絶対ではなく、一つの意見であることを自覚している言葉だ。大阪人は非論理的に思われがちだが、実は論理的な合理主義者なのだ。ただそこに「いちびり精神」が加わることで、大阪文化圏外の人には不誠実だと誤解を受けることもあるだろう。SNSが発達して逆に本音を言いにくくなってきた現在、おかしいと感じることに疑問を投げかけ、立ち止まって考え、話し合うことを、義務ではなく、生活の延長線上で楽しみながらやることができる可能性を、大阪人がその気質と言語の中に持っていることを、この劇はばかばかしい真剣さで示しているのである。もし日本人が議論ベタという一般論が持ち出されたならば、その「議論」に対して大阪人は断固として反論するだろう。我々、大阪人は、人種、年齢、性別、国籍の差異を超えて、自由にそして楽しく他人と議論する=「しゃべる」ことに命をかけて遊ぶ、喜劇のコスモポリタンなのだから。この劇はそれを確信させてくれる。

 

 そして劇は、上方喜劇の習いの通り、爆笑のあとに、制度の問題にひとつの批評を加えながらも、ほのぼのとした余韻を残して終わる。これぞ、大阪人による大阪人のための「文化人類劇」だ、とごっつデカイ声で言いたい。

               (松下IMPホール、2023年1月21日所見)

12nin.jpg

【企画・台本・演出】わかぎゑふ

【脚本】東野ひろあき

【出演】今江大地(関西ジャニーズJr.)、うえだひろし、内山絢貴(劇団五期会)、大江雅子、大熊隆太郎(壱劇屋)、木内義一(テノヒラサイズ)、古場町茉美(Z system)、多和田任益、早川丈二(Mouse Piece-ree)、古川剛充(ゲキゲ)、ボブ・マーサム(THE ROB CARLTON)、前田晃男(ボラ☆ボラ)

【日替わりゲスト】東野ひろあき、茂山宗彦、ドヰタイジ、桂九雀

【東京公演】 会場:紀伊國屋ホール 日程:2023年1月7~17日

【大阪公演】 会場:松下IMPホール

日程:2023年1月21~22日

『十二人の怒れる男』 12 Angry Men

1954年テレビドラマ、1957年映画としてアメリカで製作され、それらを原作として上演された舞台作品。「法廷もの」の密室劇に分類されるサスペンス。映画ではヘンリー・フォンダが主演。1957年度の第7回ベルリン国際映画祭金熊賞と国際カトリック映画事務局賞を受賞した。同年度のアカデミー賞で作品賞を含む3部門にノミネートされた。

12_Angry_Men_(1957_film_poster).jpg

12人のおかしな大阪人

大阪公演 1995年1月20日~25日 近鉄アート館

東京公演 1995年1月28日~31日 全労済ホール/スペース・ゼロ

作/東野博昭・G2・生瀬勝久
演出/生瀬勝久
出演/生瀬勝久、升毅、わかぎえふ、キムラ緑子、川下大洋、蟷螂襲、みやなおこ、牧野エミ、コング桑田、三上壱郎、佐々木靖乃、山西惇、東野博昭(Wキャスト) 、桂九雀(Wキャスト)

瀧尻浩士(たきじり・ひろし)

演劇研究。宝塚、文楽、上方喜劇、上方落語に上方漫才といった関西ゆかりの芸能に魅せられ続けてはや半世紀。

事物の隙間
Hyper Ambient Club 2023 私の唇はあなたの耳に、あなたの手は
私の手となり、私たちが作った影の下で動く言葉

上念省三

jonen
HyperClub00.jpg

「Hyper Ambient Club 2023」
My lips to your ear, my hand on yours, the words moving underneath the shadows we made.

2023年2月24~26日

CCO / クリエイティブセンター大阪

演出・振付:敷地理
共同リサーチ・出演:宇津木千穂、小倉笑、境佑梨、黒田健太、敷地理、藤田彩佳
演出・振付助手:境佑梨
ムーブメントリサーチ協力:保井岳太、服部天音、大迫健司、Ching Shu Huang
ドラマトゥルギー:朴建雄
グラフィックデザイン:山岸由依
寿司・ドリンク:羽渕聖人(ブリニカン+Mother’s milk)
DJ:uxyagkcolbgof
展示作家:浅尾鷹哉
制作:眞鍋隼介

photography by manami tanaka

HyperClub02.jpg

敷地 理 Osamu Shikichi
1994年生まれ。振付家/ダンサー。東京藝術大学大学院修士課程修了。自分を客観的に見ることが不可能な中で、物質的に最も近い他者を通して自分の強い現実感を捉えることをテーマに制作を行う。主な作品発表に『happy ice-cream』(横浜ダンスコレクション2020) 、『blooming dots』(豊岡演劇祭2020フリンジ/CAF賞2020/TPAM2021フリンジ) 、『dragging』(Tokyo Arts and Space)、 『Hyper Ambient Club』(ロームシアター京都) など。主な受賞に「横浜ダンスコレクション2020」若手振付家のための在日フランス大使館賞など。https://x.com/osamu_shikichi

Vuong.jpg

The New York TimesのBOOKS OF THE TIMES(2019.5.27)から

上念省三

(じょうねん・しょうぞう)

​1959年生まれ、神戸在住

西宮市文化スポーツ課文化担当アドバイザー

国際演劇評論家協会日本センター関西支部長

ダンスの時間、さなぎダンスを主宰

 クリエイティブセンター大阪(名村造船跡地)の4階はとても広くて、原寸大の船の図面を引くためだと聞いたことがあったが、誰か、おそらくダンサーが、動くと揺れた。揺れているなと思って、今地震が起きて津波が来たら、ここは海沿いでしかないから、まず助からないなと思って、観客もダンサーも運命を共にするのだなと思った。生の舞台芸術の醍醐味だなどと嘯いてもいられないが、ここにこうして集まっている人と死ぬのなら、悪くもないなと思う。

 

 そのことと合わせて、それほど大きいわけではないスクリーンに映っている、ダンサー自身によってスマホで写された映像が、最初はリアルタイムに目の前の像だったのに、いつの間にか数瞬前とかかなり以前なのか過去に写された映像に差し替わっているのは、過去が今になっているわけで、あるいは今が過去になっていると言ってもいいのか、あぁもしいま津波に巻き込まれて過去が竜巻のように回想されたなら、同じように過去と今が混淆していくのだろうなと思った。

 会場にいた若いダンサーの十川大希が言っていたが、舞台じゃないから、ダンサーとこっち側の境目がないから、ダンサーの波動のようなもの…という言葉を十川は使わなかったが、何と言ったんだったか…動きや存在から溢れ出てくるもののことだ(要は)、が直接皮膚から中に来たわけだ。

 

 会場はとても細長かったから、わざと端からパフォーマンスを見ると、とても遠かった。遠さの中に他の観客がシルエットになっていて、美しかった。窓からは奇妙にオレンジ色の景色が映像みたいで、不思議だったのだが、外なのになぜあんな人工の照明みたいにアンバーだったんだろう。

 

 アンバーって、琥珀色という意味だったことを、いま知った。その中に封じ込められた生命。反照して目の前の樹脂化したオレンジ色の空間の中で、左手をスマートホンで写しながらその左手が何なんだかわからなくなっているダンサー、いや、ぼくたち。時間と共に混乱しているのは、所有、所属…なんといえばいいのかな、自分のからだとつながっているのは確かなはずなんだが、だから自分のものであるはずなんだが、どうにもそうは思えなくなってしまっている自分の身体の端っこという対象のことだ。

 

 自分自身に対する遠さや違和感は、誰もが持っている、と断言していいのかな。細長くて広い会場を回遊しながら何人かの踊る人を見ているぼくたちは、踊っている場所と踊っている人が移り変わっていくことに、実のところはついていけてなくて、存在の一部をさっきまでのそこに残したまま、次の(次の場所は蛍光灯の点灯によって指示されるのだが)場所に歩いていく。歩行の時間が散文的で、耐えられない。

 

 誰だったか、美術作品は美術館は、自分で歩いていかなければ次のシーンをみることができないが、ダンスや演劇は座っていれば次のシーンがやってくると言った人。なるほど、高齢者には、舞台芸術だね。…今日は舞台芸術なのに、観客が歩かなきゃならない。一人として、同じ一時間を見た人はいない。昔晴海埠頭で観た寺山修司のレミングだったかな、を、思い出した。4つだかの舞台で、さまざまなことが行われていて、誰も同じものを見れない。今日だって、誰かは踊る人のすぐ近くに寄って見ただろうし、遠くから全体を見ようとした人もいただろうし、まさかずーっと外を見ていた人もいるかもしれない。ぼくは思い立って、スピーカーの前にいて、空気の振動が音になってふくらはぎに当たるのを酔うように感じていた。

 

 同じものを見ていないのに、津波が来たら、一緒に死ぬ。でもね、開演前に2階で待っていた時に、ああ今この数十人は、同じ何かを見ようとして集まってきている人なんだ、その人たちといま同じ音と光に包まれて、なんて幸せなんだと思っていたんだ。なのに、同じものを見ていない。人生みたいだ。

 

 

 ……ここまでの文章は、およそポストパフォーマンストークのようなアフターパーティーという場にいながら書いた。パーティーというだけあって、DJの音が流れる中で、演出・振付の敷地理ともう一人が話しているのだが、聴きとりにくかった。聴きとりにくいなと思いながら、漏れ聞こえる断片的な単語と、さっきまでいた現場の印象とが言語になる少し手前で結合しそうになった文章…といっていいだろう。

 

 この公演は、Hyper Ambient Club 2023 と銘打たれていて、 それがタイトルかと 思うと、これはシリーズ名(2022年に京都で上演されたものに続いている)であって、今回のタイトルは、チラシには書かれておらず、当日配布されたペーパーに書かれている。「私の唇はあなたの耳に、あなたの手は私の手となり、私たちが作った影の下で動く言葉」と。

 

 敷地によれば、これはOcean Vuongというベトナム生まれのアメリカの文学者の小説「On Earth We’re Briefly Gorgeous」からの引用、意訳だそうだ。この文章の背景を説明する敷地の文章はとても美しく切ない。今は具体的には略すが、それによって敷地は「まさに自分がここ最近実践している、体を匿名化させその一部をハッキングし共有し合い、リサイクルを試みることと同じものとして感じられ」たと述べている。 

 

 この文章が、この作品を観る上で何かの補助線になったかというと、よくわからない。スマートフォンで撮影され、時間を往還していたダンサーの掌が、「私」の掌になるような時間があったかと問われれば、あったように思う。あるいは別のシーンで静かに頭部に触れられていたダンサーの身体に、「私」はシンクロして、頭部にぬくもりを感じていたように思う。

 

 やや自惚れながら飛躍すれば、その敷地の言葉と、ぼくがアフターパーティーのさなかに書いたものとは、ほぼ直結しているように思える。ただ、その直結している回路が見えにく、反芻できない。敷地の言う体の匿名化は、一般的にぼくたちが舞台芸術にふれる時の視線の指向とは逆の向きにあると言ってよく、現にぼくもこの公演で旧知のダンサーの身体を探し、見つめようとはしていた。それが享受上の錯誤だったとは思わないが、結果的にダンサーの身体の遠さを、実際の距離の長さとしても、作品の構成としても認識させられていた。

 

 旧知のダンサーはいたが、そうでないダンサーもいた。だいたいぼくは敷地を知らなかった。アフターパーティーでマイクを持っていたから、それが敷地らしいとわかった。それをして匿名化であったとは言わないが、結果的にぼくには、ダンサーは匿名的であり、この広い会場で、ダンサーの身体は強烈な個性を把持しながら、無名化していた。

 

 匿名でない状態を何と呼ぶかは、既に東浩紀が話題にしていたので悔しいが(「情報自由論」第9回「表現の匿名性と存在の匿名性」 初出:『中央公論』2003年4月号 http://www.hajou.org/infoliberalism/9.html)、東が使った「顕名」ではなくあえて名を露わにするということで、辞書にはないようだが「露名」という言葉を使ってみたい。

 

 たとえば、(いささか堂々巡りになるが)映像の中の身体と目の前の現実の身体が並列されたときに、ぼくたちはその差異を見ようとするのではないか。差異というものは、あくまで存在の露名性を強調するものであるのと同時に、どこにも実体のない隙間、ドーナツの穴みたいなもの(ちょっと違うか。でも、穴がなければドーナツではない。あんドーナツとかは例外)を指し示すものでしかないだろう。

 

 この公演では、冒頭にそのことを強いられたために、観る者は身体と身体の映像の隙間、身体と身体の隙間、身体の中にある隙間を見つめることになってしまったかもしれない。だからこそ、よく見える対象というものがあるのだろう。

 

 先ほど略したこの作品のコンセプトとなった小説の文章は、ベトナムから移民としてアメリカに移住して英語があまりできない母親が言語コミュニケーションのフラストレーションから息子のOceanに手を上げてしまうという場面に基づいているという。そこには、当事者の誰にも帰趨させることができない悲劇があるにもかかわらず、それを敷地が自身の海外滞在体験と照らし合わせて、言葉と身体の匿名化への回路として新鮮な発見としているのが、異様に思えるほどだ。

 

 激烈に環境的でしかないクラブというシリーズタイトル(意訳)に立ち戻れば、身体の匿名化と露名化、現前する身体と映像の中で仮構されている身体、現在する身体と過去の身体……身体を世界と呼んでもいいが、それらの隙間、狭間にあることが激烈に環境的であり、実体そのものを指すわけではないことが快適であるという、指示性の回避に帰結する不在感覚がこの時間と場所を覆っていたように思う。果たしてぼくはそこに帰属したいのか、その傾向に加担したいのかと問われると、にわかに回答することは難しいのだが、何ものかたちの隙間にあるということが、なかなか快適であったことは、確かだったのだ。

歌が伝えてくれるもの
日中合作音楽劇「李香蘭―花と華―」 
小山沙恵

koyama

 2022年は日中国交正常化50周年、2023年は日中平和友好条約45周年という節目の年であった。それを記念して上演された当作品(企画・製作World Code)の千秋楽(1月22日17時半公演)を「紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA」で鑑賞した。

 李香蘭(本名 山口淑子)は、中華民国奉天省で日本人の両親の元に生まれ、成長し、歌う中国人女優・李香蘭としてデビューした。彼女が歌った「夜来香」「蘇州夜曲」などはアジアで大ヒットした。しかし、日本と中国の戦争が激化する中、李香蘭は日本人でありながら、「自分は中国人である」と偽らなくてはならないことに悩み苦しむ。この戦争の時代に生きた一人の歌姫の物語が、終戦から年月がたち、日本人として生きている山口淑子を語り部として展開される。

 開演前まで観客は舞台上の写真を撮ることが可能になっていた。友人に話すときの話題に、観劇の記念に、さらに何より写真をみて観劇当時の雰囲気や感情を思い出すのに最適である。また、舞台上の左右のスクリーンには、「♯音楽劇李香蘭」の文字とともに日本と中国両国の国旗が映し出されており、当作品を楽しむことに加え、両国の関係や平和についても考え、伝えてほしいというメッセージが感じられた。

 開演時間になると、二胡奏者の王淑麗が演奏を始める。二胡とは中国民族楽器の1つで、2本の弦を馬の尾でできた弓で演奏するものである。この音色が日本にはない幻想的なものであり、観客は当作品の世界へと一気に誘われる。

 

 「音楽劇」と名を冠しているだけに、「音」と「歌」が重要な要素となっていることが冒頭から感じられる。現に当作品の演出家(良知真次)もインタビューの中で、本作の大きなテーマは「歌」と「エンターテイメント」だと述べており、それにふさわしい幕開けである。

 劇中では特に山口淑子役の安寿ミラの歌声を聞き、震撼させられた。私の「歌」という言葉の認識を変えたといっても過言ではない。一音一音、一言一言に人生がこめられているように感じた。中国人として、日本人として、これまでに歩んできた困難、苦労を乗り越えた末に得た幸せを感じ取ることができた。李香蘭役の西内まりやも、迷いながら懸命に生きている様子を透き通っていながらも芯がある歌声で表現しており、戦争の中、人々の心に光を与えたスター李香蘭役に適任である。二人の俳優の歌い方や歌声の違いから、李香蘭として生きた時と、山口淑子として生きた時の心情の変化がより伝わってきた。このように、二人の俳優が、一人の人物の過去と現在をそれぞれ歌い分ける表現に、当作品が「音楽劇」であった意味が感じられる。

 劇中においても、李香蘭の歌声は人々の救いとなっていたことが描かれている。終盤のシーンにて、李香蘭は川喜多長政(伊勢大輔)と共に引揚げ船にて日本に帰ることになる。船は大勢の人々であふれており、皆の顔は戦争により疲労がにじみ出ている。その中でラジオが流れ始める。聞こえてきたのは「夜来香」-李香蘭の歌だった。李香蘭は動揺する。

 この様なところで正体がばれたら何を言われるか、偽りで身を固めながら生きた自分に―。そこに一人の少女の歌声が聞こえてくる。「お父さんとお母さんとよく一緒に歌った。」と、少女は母親に言った。その母親は少女の歌声を聞きながら涙しており、父親はもうこの世にはいないのではと感じさせる。しかし少女の中では「夜来香」と共に過ごした家族三人での幸せな時間が残っているのであろう。乗客たちは、歌を聴き、各々の感情があふれてくるのだろうか、涙を流したり抱き合ったりしていた。

 辛くて苦しい時代、困難が数えきれないほどあったであろう。その中で李香蘭は、彼らの心に咲く一輪の花であったのかもしれない。今現在も、世界では戦争や疫病は絶えない。テレビをつければ暗いニュースが多く放映される。私自身、戦時中の人たちの悩みから比べれば、微々たるものかもしれないが、将来への漠然とした不安に潰されそうになることもある。しかし私には舞台があるから前を向ける。明日も頑張ろうと思える。李香蘭の歌に励まされた人々のように。
 

lee_main.jpg

脚本・作詞 岡本貴也

演出・振付 良知真次

作曲 鎌田雅人

振付協力 名倉加代子

総合監修 横内謙介

 

出演 

李香蘭:西内まりや
川島芳子:飛龍つかさ、玉置成実(Wキャスト)
リュバチカ:玉置成実、黒崎真音(Wキャスト)

児玉英水:中村太郎
川喜多長政:伊勢大貴
山家亨:柳瀬大輔
甘粕正彦:良知真次

山口アイ:松本梨香
山口文雄:速水けんたろう

李将軍:加藤靖久
潘月華:明音亜弥
長谷川一夫:斉藤秀翼

山口淑子:安寿ミラ(特別出演)

茉玲さや那、佐竹真依、森山智礼、左京里紗、大山五十和、寺島レオン、浅野郁哉、姚旭之

二胡奏者:王淑麗

​写真:音楽劇『李香蘭ー花と華』製作委員会

(C)音楽劇「李香蘭-花と華-」製作委員会1.jpg

小山 沙恵(こやま さえ)
舞台を見るのが好きな高校生。
小学校低学年にニューヨークに住んでおり週末はブロードウェイの舞台をよく見ていた。
帰国してからは宝塚、ミュージカル、最近は歌舞伎や文楽なども。

bottom of page